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不十分との指摘だけではなく、十分な点の評価も大切ですよね

不十分との指摘だけではなく、十分な点の評価も大切ですよね

日々、リビングのテーブルで勉強しています。

数学の特定の項目が苦手で、悪戦苦闘しています。

「なんでこうなるの?」

と私に尋ねてくることもあります。

その項目は数少ない私の得意分野で、私は得意げに(大人気ない!)、

「こうこうこうだから、こうなってあーなって、こうなるんだよ」

等と話したりします。

長男の受験勉強の様子を見ていたり、そしてその成果としての模擬試験の結果等を受けとったときなど、ついつい

「○○がまだできていない」

という事柄を指摘してしまいます。

「本番で○○が出たらやばいぞ」

等と言う事もあります。

長男も重々承知していることなのに、なんとくどいことか。

そんな時、往々にして、できていないことだけを指摘し、できていることを褒めることを忘れてしまうことがあり、反省しています。

100点満点のテストで90点を取ったら、90点分はできているんですよね(当たり前ですが)。

それなのに、真先にできなかった10点分を指摘して駄目出しで終わってしまう。

まずは90点の結果とそれに繋がった努力を評価すべきなんですよね。

できなかった10点分も、できた90点分の努力の延長線上にあるわけで、できなかった10点分をできるようにするためには、90点分の努力を認めることが必要です。

できたこと、できなかったことは、同じ努力から生じた結果なのですから、できなかった事柄だけに目を向けては努力全体を適切に評価することはできませんし、努力そのものへの適切な評価がなされなければできなかったことの改善も望めません。

勉強に限らず、スポーツでも仕事でも家事でも、それこそ行政の施策であっても、同じことが言えるのでしょう。

何らかの不十分な点を改善しようとするなら、不十分な点だけに目を奪われず、十分な点に目を向けること。

これが改善を実現するための前提なのだと思います。

できたこともできなかったことも両方に目を向け、全体を視野に入れて評価する姿勢を忘れずにいたいと思う今日この頃です。



2016年8月26日
ムコネットTwinkle Days 命耀ける毎日」に掲載

2016年8月26日
ハフィントンポスト日本版」に転載
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膨大な依存先を提供できる社会に

こんにちは、木曜日担当のPlus Action for Children 高畑です。

息子たちには、自立できる力を身につけて欲しい、そんな思いを日頃から抱いています。

以前は、私たち親のサポートが無くても生きていける、困らない、そんな風に考えていました。

あるとき、熊谷晋一郎さんのインタビュー記事、

自立は、依存先を増やすこと  希望は、絶望を分かち合うこと」(TOKYO人権 第56号(平成24年11月27日発行))

を目にし、はっとさせられました。

「実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態なのだろうと思います。だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。」

私は、誰にも頼らない、一人でも生きていけることが「自立」だと考えていましたから、もう、頭をガツン!とやられたような、そんな感覚でした。

自分自身のことを改めて考えると、なるほど、多くの依存先にサポートされながら生活しているんだと実感します。

そのサポートが受けられない、受けにくい状態に陥った方が生き難さを感じるのだと考えられるようになりました。

どのような状況に立たされても、複数の依存先を確保できる、サポートを受けられる社会であれば、私たちはそのような状況に立たされることを必要以上に恐れることなく、安心して社会生活を営むことができます。

自立が、何にも依存しないことではなく、多くの依存先を確保できることであるならば、特定の困難な状況に陥った人たちだけではなく、誰もが多くの依存先を確保する、サポートを受けられる社会であることが望まれます。

その中で、依存先が限定され、又は失ってしまい、サポートを受けることが困難な状況の方が生じたのなら、その方々が依存できる依存先を新たに提供できれば良いのですよね。

明石市の泉房穂市長のインタビュー記事

「「子どもの貧困対策をするつもりはない」と 対策先進市・明石市長が言う理由」(Yahoo!JAPANニュース2016年7月20日 9時54分配信)

では、明石市の行政サービスの姿勢が明らかにされています。

「なので、児童手当を該当する市民に行き渡らせようとすれば、またその機会を活用してご家庭のお困りごとを解決していこうとすれば、結果的にそこで浮かび上がってくるのは貧困家庭の子どもたちだったりするわけですが、それは結果であって、その子たちに向けてサービスをしているわけではない。

すべての子どもたちが対象です。 」

とあるように、全ての子どもたちにサポートを提供する、結果としてそこに困難な状況にいる子どもたちの存在が浮かび上がってくるので、その子たちに向けてサポートを提供する、ということなのですね。

自立と依存を対義関係と捉えるのではなく、膨大な依存を得られる状態が自立だと考えれば、誰もがどのような状況に置かれても依存先を複数確保できるようにすることが、誰もが自立した生活を送れる社会なのだということになります。

そして、依存先が限られ何らかのサポートを必要としている方が居たとすれば、それはその方の問題なのではなく、依存先を提供できていない社会の問題なのですよね。

私も何らかの事由で依存先を失う、サポートを受けられない、受けにくいという状態になることは十分に有り得ます。

どのような状況にあっても、十分なサポートを受けられるようであれば、安心して生きていくことができます。

自分が自覚せずに受けている膨大なサポートの存在を自覚し、そのサポートが不足していることで困難な状況にある人たちに十分なサポートが提供されるような社会となるように、これからも活動を続けていこうと思っています。

そして、息子たちには、私たち親だけではなく、社会の中に広く数多くの依存先を確保でき、自立できるような大人になれるように、アドバイスを送り続けたいと思います。



2016年7月28日
ムコネットTwinkle Days 命耀ける毎日」に掲載

2016年7月29日
ハフィントンポスト日本版」に転載

罹って抗体をつけるのはお勧めしません

こんにちは、木曜日担当のPlus Action for Children 高畑です。

新年度が始まり、何かと賑やかな時間を過ごされている方も多いと思います。

桜の花も関東では今週末が今シーズン最後の花見チャンスのようで、少しだけでも時間を作ってみてこようかなと思っています。

さて、10月からはB型肝炎ウイルスワクチンが定期接種化されるなど、年々定期接種の数も増えています。

我が家が子育て中には、ヒブ、小児用肺炎球菌、HPV(女子だけですが)、水痘は定期接種ではありませんでしたし、長男の時には水痘以外はワクチンそのものが我が国では承認されていませんでした。

ポリオも経口生ワクチンでしたが、現在は不活化ワクチンとなり、ワクチン由来のポリオ感染のリスクからは介抱されましたが(時間がかかりましたね)、接種回数は増えています。

これらをすべて単独で接種しようとしたらとてもじゃありませんが、接種しきれません。

子どもたちが予防接種による抗体を十分に獲得してVPD(Vaccine Preventable Diseases:ワクチンで防ぐことのできる疾病)から守られるためには、適切な時期に速やかに接種を受ける必要があります。

単独接種では時間がかかりすぎますよね。

そこで、混合製剤や同時接種の活用が大切となるのですが、しかし現状ではまだまだ混合製剤の導入は我が国では不十分ですし、同時接種を活用しても何度も接種のために医療機関に足を運ばなければならない状況には変わりありません。

そんな状況のためか、たまに「全ての定期接種を受けるのは大変なので、一部だけを受けたいのだけど」という相談を受けることがあります。

しばしば言われるのが「ヒブや肺炎球菌、ポリオは罹ったら大変だから受けるけど、麻疹や風疹、水ぼうそうは感染しても治療すれば大丈夫そうだから接種を見送ろうと思う」というもの。

VPDの重篤性や後遺障害を負うリスク等が高めのものだけを受けて、感染者の大半が軽症で済んだり適切な治療を受けることで回復するような疾病は受けない、ということのようです。

そして、「もしそれで麻疹や風疹、水ぼうそうに罹ったら、それはそれで予防接種よりしっかりした抗体を身につけられるからそれで良い」とも。

うーん...。

予防接種は個体を守ることに加え、集団免疫=社会全体で感染症を防ぐという意味合いもありますから、そういった選択はしないで欲しいな、と。

それと、もうひとつ、「自然罹患し回復すれば、予防接種を受けるよりも、結果としては良かった(より強い抗体を獲得できた)」という考えには、やはり賛同できないんですよね、私は。

予防接種を受ける手間隙とリスク、感染して治療を受ける手間隙とリスク、を比べたら、圧倒的に前者の方が小さいと思うことが第一。

第二に、感染したことで更なる疾病発症等のリスクを背負ってしまうことがあるからです。

水ぼうそうのウイルスが体内に残っていて、成人後に帯状疱疹を生じることは、最近では多くの方々もご存知のことと思います。

あまり知られていないことですが、麻疹(はしか)にも同じような疾病があり、これはSSPE(亜急性硬化性全脳炎)という疾病があるのです。

また、B型肝炎ウイルスも最近ではキャリアではないと考えられていた患者さんが、リウマチの治療薬や免疫抑制効果を伴う薬剤治療を行うことが、肝臓内でウイルスの活動を再び活発にし肝炎を生じるケースが増えていることも指摘されています(特定非営利活動法人 日本小児肝臓研究所のホームページで解説を読めます)。

これらのリスクは、自然罹患で抗体をつける場合にのみ伴うリスクであって、予防接種によりVPD罹患を防ぐことで回避できるリスクです。

こうしたことを考えると、私は「自然罹患し回復すれば、予防接種を受けるよりも、結果としては良かった(より強い抗体を獲得できた)」という考えには、やはり賛同できません。

子育て中、頻回にわたる予防接種はなかなか面倒くさいものでありますし、回数を減らせるものなら減らしたいという気持ちは良くわかります。

ただ、その気持ちは、必要な定期接種を回避することで減らすのではなく、混合製剤の早期承認・導入を求め実現することや同時接種の活用等に向けて欲しいと思います。

繰り返しになりますが、定期接種化されている疾病で、自然罹患したほうが良いものはありませんよ。



2016年4月7日
ムコネットTwinkle Days 命耀ける毎日」に掲載

2016年4月7日
ハフィントンポスト日本版」に転載

組体操の必要性と安全性・危険性、対応策を誰が評価・策定するのか

こんにちは、木曜日担当のPlus Action for Children 高畑です。

節分の2月3日、衆議院第一議員会館第会議室で開かれた、「組体操事故問題について考える勉強会」に参加してきました。

初鹿明博衆議院議員が中心となって開催したものです。

昨年11月には「学校管理下における重大事故について考える勉強会」と題する勉強会に参加しましたが、今回はこの中から運動会や体育祭で行われる「組体操」に焦点をあてたものとなっていました。

講師は名古屋大学大学院教育発達科学研究科准教授の内田良氏と、松戸市立病院救命救急センターの庄古知久氏です。

内田氏は日本スポーツ振興センター(JSC)の統計をはじめとする各種データや実例を基に、組体操における事故の実態がどのようなものなのかを解説されました。

庄古医師は、松戸市の救命救急センターを受診した患者さんの中から組体操によるものを抽出し、受傷機転や受傷部位、予後などを実例を交えながら説明され、また松戸市における組体操の状況を示しながら、現状の組体操の問題点を解決策を提示されました。

また、参加した地方議会の議員や国会議員、組体操でお子さんが事故に遭われた保護者の方などから発言があり、組体操の現状を学ぶ貴重な機会となりました。

今回の学習会における組体操に係る議論のポイントとして、

(1)組体操そのものの実施に係る事柄

(2)組体操事故に係る学校や教育委員会、行政の対応

の2つの柱がありました。

(2)については、事故の実際を正確に把握すること、そしてそれらの教訓に再発防止につなげること、組体操が孕む危険性等を多くの方に知らしめ共有化すること、等を阻む好ましからぬ現状(隠蔽体質等との指摘がなされていました)があるとのことで、これは組体操だけに留まらず、学校・教育の現場における様々な課題についても影響する課題だなと感じた次第です。

(1)については、そもそも組体操は学習指導要領に記載が無い種目なんだそうです。

ということは、サッカーや跳び箱など学習指導要領に定められている種目とは異なり、改めて「実施する必要性」と「実施することで生じるリスク」、「講じうるリスク軽減策」を評価、策定したうえで実施の是非を判断すべき種目だといえます。

「○○という教育効果が期待される」ことに対し、実施することで生じるリスクが適切に評価され、そのリスクの軽減策が実現可能性も含めて検討されたうえで、これらが比較考量されて「実施すべき」、「実施するならこのような対策を」、「実施しない」と判断されるものですよね。

ところが、この「実施する必要性」や「実施することで生じるリスク」、「講じうるリスク軽減策」は、十分に論じられているとはいえないのが現状ではないでしょうか。

東京新聞に、「<組み体操 事故なくせ> 義家文科副大臣に聞く」との記事が掲載されていましたが、安全配慮に欠いていたという認識は示されているものの、「危ないのは組み体操だけではない」、「仲のいい子、体力がある子同士で組み、余った生徒たちがペアを組まされることがあり得る。最上段にはバランス感覚がいい人間が上がらないといけない」、「事故が起きているのは組み体操だけでない。柔道、剣道などあらゆるところに規制を出さなければいけなくなり不健全だ」等と、「実施することで生じるリスク」、「講じうるリスク軽減策」を殆ど検証されていないままの現状を理解されていない様子が伺えます。

にも関わらず、「実施する必要性」については「全校生徒が羨望(せんぼう)のまなざし」、「私自身がうるうるきた」と何の指標にも基づかない主観だけの評価で「組み体操はかけがえのない教育活動で、悪いことではない」としています。

庄古氏が講演の中で「競技種目としてやっていけるのでしょうか」と表現されていましたが、組体操を学校教育の場で生徒が取り組む「競技種目」として捉えると、他の物と比して、著しくプリミティブな状況にあるという点に私自身は課題を感じます。

内田氏によると、組体操の危険性を指摘すると、「他の競技でも怪我はする」、「運動に怪我はつきもの」、といった反論があるそうです。

また、庄古氏は知人の整形外科医から「徒競走だって怪我をする。組体操を禁止するなら徒競走も禁止するのか」といった趣旨のことを言われたそうです。

いずれの反論も、程度問題や成熟度などを度外視した反論ですよね。

様々な競技が、リスクを軽減する、事故を防止するためのルールや道具の工夫、導入等を繰りかえしながら安全性を高める努力を重ねて現状に至っているのに対し、組体操はまだまだ程遠いといわざるを得ません。

また、例えばサッカーであれば日本サッカー協会が高温時の試合中の給水を徹底するよう各地のサッカー協会を通じて現場の指導者や保護者に伝達しているように、競技単位としてオーガナイズする主体が組体操には存在しないようです。

この点は内田氏にどこが主体となるべきかを尋ねましたが、やはり「文部科学省」である、と考えられているようでした。

残念ながら、文部科学副大臣が、「実施する必要性」や「実施することで生じるリスク」、「講じうるリスク軽減策」を十分に検討しないまま、自らの主観をよりどころに組体操問題についてインタビューに応えてしまっている現状では、現段階では「文科省」がオーガナイズを担う状況には無いと言えるでしょう。

文科省が担うのか、より現場に近い集団がその役割を担うのか、議論の余地はあるかと思いますが、このような体制やシステムを構築しないまま、組体操の禁止や規制だけで問題解決を図ろうとすれば、第二、第三の組体操が登場するのも時間の問題だと危惧します。

20人21脚、30人31脚といった競技、クラス全員で組む巨大ムカデ競争、競技が置き換わるだけで、「実施する必要性」や「実施することで生じるリスク」、「講じうるリスク軽減策」の検討が不十分なまま、危険な競技種目にが子どもたちが挑まされる状況自体は変わらないからです。

組体操問題は、学習指導要領に記載されていない競技種目が、その必要性や危険性等の検討を十分になされないまま教育の場に持ち込まれている一つの事例です。

その根底にある、「必要性と安全性・危険性、対応策を誰が評価・策定するのか」という課題を解決することが、子どもたちが晒されるリスクを軽減し、事故を防止することに繋がる一歩なのではないかと考えるものです。



2016年2月4日
ムコネットTwinkle Days 命耀ける毎日」に掲載

2016年2月5日
ハフィントンポスト日本版」に転載

量の概念

こんにちは、木曜日担当のPlus Action for Children 高畑です。

暑い日が続いています。暑さにも寒さにも弱い私にとっては、真夏の猛暑とクーラー効き過ぎが交互に襲ってくるこの時期が、もっとも体にしんどい季節です。でも、暑い夏は大好き!という、ちょっと面倒くさい奴でもあります。炎天下、嬉々として外に出ては、「暑い~」と融けそうになり、涼を求めて喫茶店などに入ると「寒い~」と言って、外に出て(以下、ループ)。こんな私に付き合ってくれる家族たちに感謝ですね。

さて、先日、こどもたちに「量の概念」について、話をしました。

「量の概念」というとなんだか小難しそうですが、具体的な事例を用いると、小学生でも十分に理解できます。

なぜ「量の概念」なんてことをこどもたちに話したのかというと、この「量の概念」が大きく揺らいでしまうと適切な選択、判断を成し難くなるからです。

例えば食品添加物。

現在、我が国の食品添加物の使用は基本的に厚生労働大臣が定めたもののみが使用されており、かつその使用量についても明確な基準が設けられています。

この基準は十分に安全性を担保する内容となっていて、一般的には実験動物に一生食べ続けさせても健康に害を及ぼさない最大量(無毒性量)の1/100の量を「ADI」として設定し(この量を毎日食べ続けても健康に害を及ぼさないという一日あたりの接種許容量)、そのADIに対しさらに低い値で使用量の基準を設けています。

実際に私たちが口にする食品からどれ位の食品添加物を摂取しているのかということも調査されており(※マーケットバスケット方式による年齢層別食品添加物の一日摂取量の調査)、結果からは一日あたり摂取量(ADI)に対し1%にも満たないものが殆どであることがわかっています。

その量を毎日食べても健康に害を及ぼさないという食品添加物の一日あたりの摂取量がADIですから、そのさらに1%にも満たない量というと、どれだけ現在の食品添加物が安全性を重視して規制されているかが理解できると思います。

では、ある食品に使用された食品添加物の量が、規制値の10倍だったとします。

ここで、量の概念が身についているか否かで、この事柄についての反応が大きく違ってしまうことがあります。

「基準に反してしまった」という事実よりも、「10倍」という数字(倍率)に驚き、その数字が意味する事実を適切に理解することなく、健康への影響を恐れてしまう、といったケースです。

基準を大幅に超えていることが明らかなのですから、何故そのような状況になったのかという原因究明と再発防止は不可欠です。

そのような観点からは決して看過できない出来事といえます。

一方で、その食品を口にしてしまった、としたらどうでしょうか。

例え基準の10倍だとしても、毎日摂取し続けても害を及ぼさないADIを超える数値には到底及ばず、健康への影響を心配する必要性は極めて低い(というか、心配しなくても良い)と思われます。

にも関わらず、「やばい」「大変だ」と反応してしまうことって、案外珍しく無いんですよね(私もそういうときがあります)。

量の概念が欠如している場合は、リスク等の見積もりが往々にして不正確になりがちです。

そのため、本来は無視しても良い程度のリスク(リスクという表現自体が不適切かも知れませんね)を避けることを優先し、本当に避けるべきリスクを避けそこなったり、不必要に新たなリスクを抱え込んだり、ということにもなりかねません。

こどもたちには、「○○倍」とかいう時は、そのもとになる数字もちゃんとみておくんだよ、と話しました。

1gが2gになっても倍、1kgが2kgになっても倍、500kgが1tになっても倍、だけどそれぞれ違いは、1gと1kgと500kgです。

運搬する荷物の重量なら、1gは無視しても良いですし、1kgは頑張れば対応できますが、500kgは無視できませんし頑張りだけでは対応できません。

「2倍」だけでは、その差を正確に把握することはできないんだよ、と。

単位と桁も大切だ、ということも話しました。

1kgと1000gなら同じだけど、単位の前につく数字は1000倍違います。

また、億と兆では1万倍違うのですが、個人のお金の感覚からするとどちらも「大金」なんですよね(違いとしては1万円と1円の違いと同じなんですけど)。

こどもたちに上手く伝えられたのか、理解を促せたのかは定かではありませんが、これからも折に触れ意識付けしていきたいと思っています。



2015年8月6日
ムコネットTwinkle Days 命耀ける毎日」に掲載

2015年8月6日
ハフィントンポスト日本版」に転載
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