雑感:議論することと個人を否定すること

こんにちは、木曜日担当の+Action for Children 高畑です。

5月はサッカー三昧にさらに拍車がかかっています。というのも、長男は全日本少年サッカー大会千葉県予選と千葉市少年サッカー大会が並行して行われていて、次男は千葉市美浜区大会に参加しているから。3つの大会が並行しているので、子どもたちは大変。そして私は毎週、子どもたちのサッカーが観られるので大喜び。毎週末、ビールが美味しいです。

と、充実した日々を送っているのですが、最近のウェブ上での情報やメディアの情報に触れて、ちょっと考えてしまいました。今回はその感じたことを、雑感として綴ってみます。

長男がVPD(Vaccine Preventable Diseases)であるヒブによる細菌性髄膜炎に罹患し大変な思いをさせてしまった反省から、私は無関心や不作為といったものを意識してしまうようになりました。長男が細菌性髄膜炎に罹患した2004年、我が国ではヒブワクチンは承認すらされていませんでしたが、他の多く国々では無料で全ての子どもたちがヒブワクチンの接種を受けられる環境にありました。これが「ワクチン・ギャップ」と呼ばれる状態です。

ワクチン・ギャップは、誰かが意図的に「日本のワクチン環境を遅らせてやろう」と行動して生じたものではありません。誰も望んでいなくても、予防接種やワクチン、感染症(特にVPD)等への無関心とその結果としての不作為が、「空白」を生み出し、ギャップを生じてしまったのです。20年前にベスト(もしくはベター)だった状態や施策が、時間の経過とともにベストやベターでは無くなることはある意味で当たり前です。何故なら社会を構成する様々な要素が変化していくからです。無関心と不作為は、これらの変化に対応しないこととなりますから、必然的に社会が必要とする状態や施策が得られない、実現されないということになります。

私が拙団体、+Action for Children を立ち上げた理由の一つが、この無関心と不作為に対する啓発と行動を促すことにあります。そのため、「知って」「考えて」そして「行動する」ことを掲げています。私たちは社会に暮らす有権者の一人として、社会の状況を知り、課題があると知ったのならどうしたら改善できるのかを考え、改善に向けて行動することが求められます。知り、考え、行動すること、これらが無関心と不作為に陥らない方法だと思います。

幸い、インターネットが普及し、情報端末が発展してきたおかげで、得られる情報の幅も量も増え、また、情報を発信するためのハードルが下がり、私たちは多くの事柄について、知り、考える機会を得られるようになりました。20年ともいわれるワクチン・ギャップを生みだした1990年代とは、大きく異なっている環境にあります。そしてこの環境は、無関心や不作為を防ぐことにプラスである、と私は考えています。

と、前置きが長くなりましたが、そのように「知り」「考える」ための環境が整いつつある一方で、その環境の恩恵を受ける私たち人間の側に、改善が進んでいない面があるのかなと感じています。多様な情報が多様な立場から発信され、気軽に得られる環境に、私たちは十分に対応できていないのではないか、そんな懸念です。

知る、という面では、情報発信や情報流通のハードルが下がった分、検証を経ていない出所不明の情報、真偽が定かではない情報も数多く飛び交うようになっていることへの対応ができているのか、とても心許ないなと思っています。玉石混交の情報の海から、玉と石を選別するためのリテラシーが我々に十分に備わっているのか。このことについては本日はこれ以上は触れませんが、多くの方々がこの問題について様々な見解を示してくださっています。私たちの子どもの世代に、どのように情報との付き合い方を身に付けさせるのか、私たち大人が考えていかなければいけない課題の一つでしょう。

考える、という点のひとつ、議論することにおいて、最近、眉をひそめる状況を散見します。ひとつのリンゴを目の前にして、「美味しそう」と思うか、「美味しく無さそう」と思うか、実際に食してみて「美味しい」と思うか、「美味しくない」と思うか、それは個人個人の価値判断です。そしてそのリンゴにいくらの値段をつけるのか、1個500円でも買いたいと思うのか、5個で298円でも買いたくないと思うのか、も価値判断です。

※「これはリンゴじゃない」とか言い出したら話しは別なんですけどね、今日は省きます。

この価値判断は人それぞれであり、ひとつが絶対的に正しくて他のものは間違い、というものではありません。この多様な価値判断をぶつけ合い、最終的にいずれを優先するのかを合意形成していくのが民主主義における議論なのだと思います。この議論でぶつけあうのは価値判断であって、主張するそれぞれの人間の価値や存在そのものではありません。にも拘らず、自分と違う価値判断を持つ立場の人の人間性や存在そのものを否定するような言動が目につくように感じています。

自分と異なる価値判断を主張する人への人格攻撃ともいえる情報が、ハードルが下がった情報発信環境において、簡単に流布されています。「○○派」とか「御用(エア御用というのもありました)」とかのレッテルを貼り、「悪魔」「犯罪者」と罵り、「断罪せよ」等と煽る情報。これでは議論は成り立たないですよね。お互い、何故自分の価値判断が社会的合意形成の上で施策として選択されるにふさわしいのかを議論しているのに、異なる価値判断を有する人の人格や尊厳を否定することで、議論を無いものにする手法といっても良いでしょう。この結果として、議論の結論では無く、激しく相手を非難し沈黙させた方が主導権を握るということがあるかもしれません。これで果たして良いのでしょうか。

議論することを放棄して個人を否定することで、結果として合意形成のプロセスを経ることなく何らかの意思決定が社会的になされた場合、その価値判断の妥当性云々とは別に、否定されることの恐怖や嫌悪、議論を放棄したプロセスに対しての無力感等から、無関心や不作為が生じる危険性が高いのではないでしょうか。私はこの事をとても強く恐れています。そして、最近の言論、とりわけweb上での遣り取りに、この危険性を感じています。

異なる価値判断を有し主張する人間個人を攻撃し否定し弾圧する、そのことが、時には国家間の戦争にまで発展することを私たちは歴史から学んだはずです。その過ちを再び繰り返しているような気がしてならないと言ったら、大袈裟でしょうか。

誰しも好き、嫌いがあります。自分と真逆の価値判断を示す人間を好きになれないというのは当たり前かもしれないですし、時には嫌いと思うことだって不思議じゃありません。だけれども、好き嫌いをそのまま行動に持ち込んで、相手を攻撃する、否定する、侮辱するなんていうのは、大人として子どもたちの前でとるべき行動だとは思えません。私たち大人が子どもたちに残すべきは、私たちが成長過程で過ごした環境とは大きく様変わりした現代の環境をうまく活用してより良い環境を更に後世に残していく力、能力ではないでしょうか。先に挙げたように、玉石混交の情報を適切に取捨選択するスキル、得た情報をもとに議論し合意形成を図り、実践することで、無関心と不作為を防ぐ力、こういったものを子どもたちに残してあげなければならないのだと思います。

異なる価値判断を主張する議論の相手を個人否定し、攻撃し、侮辱し、議論そのものを破棄する言動、「好き」「嫌い」という価値判断で、情報の発信者そのものを否定する言動、こういったものは子どもたちに残すべきスキルとは全く真逆の言動ではないでしょうか。

以上、雑感でした。



2013年5月16日
ムコネットTwinkle Days 命耀ける毎日」に掲載

2013年05月20日
ハフィントンポスト日本版」に転載



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予防接種制度改革~残るは政治の領域~

1月27日、厚生労働、財務、総務の3大臣による折衝が行われ、2013年度からヒブ、小児用肺炎球菌、HPV(ヒトパピローマウイルス)の3ワクチンを定期接種とすること、その費用の9割を公費負担とすること等が確認されたとの報道がなされました。
29日には各地方自治体宛に厚生労働省並びに総務省から、「9割公費負担」に係る事務連絡が発出されました。
これらの内容からわかることは、

・ヒブ、小児用肺炎球菌、HPVが定期接種となること
・新たに追加する3ワクチンを加えた全ての定期接種の費用の9割を公費負担とすること
・9割の公費負担は、普通交付税措置を講じることで実現すること

です。
「9割公費負担」の中身は、住民税年少扶養控除廃止による増税分を予防接種の財源にあて、それでも予防接種費用の9割に満たない部分を地方交付税で補う、というもの。
これを「9割公費負担」と呼ぶのが妥当なのかどうか、疑問を抱かれる方も少なくないと思われますが、本文ではこの点には触れません。
寧ろ、本来であればその使途は各自治体の裁量に委ねられる年少扶養控除廃止による増税分を、予防接種費用に充てるとしたこと、また9割に満たない部分とはいえ地方交付税の額自体は増えるであろうことが予想されること、新たな3ワクチンだけでは無く、従来からの定期接種にかかる費用も「9割公費負担」の対象としていること等、行政の裁量として最大限の「ギリギリ」の線で決着したことに驚きを感じています。
この大きな決断のために、冒頭の3大臣の折衝が不可欠であったのでしょう。
ある意味、立法府では無い行政が、現行の枠組みの中で発揮しうる、最大限の裁量を発揮したと評価すべきでしょう。

ただし、このスキームは、あくまでも現行の制度内での策に過ぎません。
厚生労働省の予防接種部会が定期接種化することが望ましいとした、水痘、ムンプス、B型肝炎、成人の肺炎球菌の4つのワクチンや、保護者の希望が高まっているロタウイルスワクチンの定期接種化にまで、対応できるとは思えません。
これらのワクチンの定期接種化を実現しなければ、ワクチン後進国脱却は成しえません。
行政の裁量の枠内で講じ得る策を超える対応が、不可欠です。

【政治に残された課題その1:財源確保策】
今回の9割公費負担を支える前提は「年少扶養控除の廃止分による増税分」を予防接種の費用に充てることにあります。
しかし、この増税分は額が経年的に増加する性質のものでは無く、新たなワクチンの定期接種化に伴う予算増には対応できないでしょう。
9割に満たない部分を補てんする地方交付税についても、使途が限定された「ひもつき」のお金では無く、また、ひっ迫する国及び地方自治体の財政状況なども勘案すると、予算増に対応しきれるとは予想しがたいです。
そもそも、地方交付税不交付団体では「9割公費負担」は何ら保障されるものでは無く、「年少扶養控除の廃止分による増税分を予防接種費用に充てなさい」といわれているに過ぎません。
一部では年少扶養控除の復活という動きもあるとの話があり、その場合にはこれらの前提そのものが崩れ去ってしまいます。
到底、今回のスキームが予防接種の財源として最適だとは言えないでしょう。
そこで、定期接種の費用の確保策を講じる必要があるのですが、私の私見では、次の2つ
にその策は絞られてくると考えています。

1.全額、国の負担とする(国の直轄事業とする)
2.健康保険の給付とする

今回、この二つの策についての説明は敢えて省きますが、いずれの策をとるにしても、いずれかの法改正は避けられないものです。
「1」であれば実施主体を地方自治体では無く国の事業とする「大政奉還」が必要となりますし、「2」であれば各保険者の説得はもちろんのこと、予防を健康保険の給付とするという健康保険制度の大幅な方向転換が必要となります(個人的には、ニコチン依存症管理、肺血栓塞栓症予防管理、生活習慣病管理等の保険適用があるのだから、既に予防が健康保険の給付となっている面があると考えています)。
保険給付では無くても、メタボ健診の様に保険者の義務としての事業に位置付ける方策もあると思われますが、これも法による対応が不可欠です。
法改正は立法府の仕事であり、定期接種の費用の確保策がこれらのいずれかしかないとすれば、財源確保は立法府、つまりは国会の仕事であり政治家の仕事である、ということになります。
行政府の裁量における財源確保策では限界があることは、今回のスキームをみるまでもなく明らかだったものであり、国会は速やかにこの課題に取り組み答えを出す必要があると考えます。

【政治に残された課題その2:日本版ACIP】
今回の「3ワクチン」という優先順位、そして、予防接種部会の議論におけるロタウイルスワクチンの位置付けから、我が国における日本版ACIPというべき評価・検討組織の不在の影響が伺えます。
現在、予防接種部会を発展改組して、評価検討組織のスタートとする方向での議論が予防接種部会で進められています(4月以降、審議会となります)。
これ自体は、現状からみればひとつの前進ではありますが、しかしながらその役割が限定的なものに留まるであろうことも十二分に予想されます。
その一つの証左が、「3ワクチンが優先」という今回の予防接種改正法案の内容です。
3ワクチンが優先される理由は、他の4ワクチンよりも医学的な優先度が高いからではありません。既に公費負担により全国的に多くの自治体が無料で接種している実態が優先されているのです。
予防接種部会の提言内容からもそのことは明らかです。
そして、3つと4つぶワクチンを分けざるを得ない最大の理由、それは「財源」に他ならないでしょう。
要は、財源が確保できないから、3つが優先されているに過ぎないのです。
予防接種部会は厚生労働省内の審議会に設置された部会であり、財務省や総務省の管轄する領域にまで踏み込む権限は有していません。
このため、財源の確保策に踏み込むことができず、厚生労働行政の裁量の枠内でしか予防接種制度改革を推進できないという限界を呈しているといえます。

また、評価・検討組織不在であるが故に、ロタウイルスワクチンの優先度評価が7つのワクチンより低いものとなっています。
現在の優先度評価のもととなっているのは、2年以上前に故・神谷齋先生を中心に取りまとめた「ファクトシート」です(今振り返っても本当に素晴らしい仕事であったと思います)。
残念ながら、当時はロタウイルスワクチンは市場に登場していませんでした。
しかし、その後にロタウイルスワクチンが登場し、接種実績の蓄積も順調に進んでいるにも拘らず、本格的な評価の対象となったのはごく最近のことです。
つまり、評価・検討組織が無いが故に、ロタウイルスワクチンが評価・検討の対象として取り上げられない時間が長時間続いてしまった、という結果が現在の優先度評価の低さにつながっているといえます。
今後、新たなワクチンが登場するたびに、同様のラグが繰り返されることが予想されるものであり、評価・検討組織の構築は喫緊の課題であるといえるでしょう。

【残るは政治の領域】
今回の3大臣折衝が不可欠であったように、現行の予防接種は総務・財務・厚生労働の3つの省にまたがる事業となっています。
この枠組みを変えないのであれば、評価・検討組織がその役割を十分に発揮するためには設置場所は3省の外側に設けなければいけません。
現状の予防接種部会を発展改組するのでは、評価・検討組織に期待される役割は十分に発揮できないでしょう。この事は、期せずして今回の予防接種法改正案が示した限界からも明らかです。
3省の外に組織を作るとなると、これもまた行政の裁量を超えた政治が果たすべき仕事となります。
逆に、現在の厚生労働省内に評価・検討組織を置いたままでその期待される役割を十二分に発揮させる為には、現在の3省にまたがる予防接種事業を厚生労働省に集約しなければなりません。
実施は市町村では無く国の直轄とする、財源は健康保険給付とする、といった厚生労働省内でほぼ完結する事業としなければならないのです。
しかし、3省にまたがる予防接種事業の在り方を変えていくのも、これまた政治が取り組まなければ成しえない領域です。

評価・検討組織の構築と財源の確保、このふたつは予防接種制度改革を実りあるものとし、ワクチン後進国の汚名を返上するため残された大きな課題です。
そして、この課題に取り組み答えを提示できるのは、政治です。
課題を解消しなければ、常に更新されていく感染症とワクチン・予防接種の世界からは取り残され、ワクチンギャップの解消は望めません。
専門家はワクチンの有用性・安全性を評価し、臨床医は患者への安全な接種と啓発、メディアや患者団体・市民団体も情報提供、啓発に努め、行政も持てる裁量の中で可能な限りの対応をとってきました。
残されているのは、政治の場での議論と速やかな決断です。
自民党政権に、大いに期待しています。

年の瀬を迎えて

とーっても久しぶりのブログ更新です。

本業やなんだかんだでなかなか「+Action for Children」では大掛かりな活動ができずに来ています。
マンパワーとマネーパワーの不足が最大の理由ですかね。
いっしょに活動してくれる方、そして団体の主旨に賛同いただき寄付を寄せてくれる方を心より募集しています!

さてさて、年の瀬にセービン株を用いた不活化ポリオワクチン(sIPV)と三種混合ワクチンの4種混合ワクチンの承認申請を阪大微研が行ったとのニュースが報じられました。
このニュースを見て、あれこれ考えたことを「マニフェスト工房」に書きました(http://manifestokobo.blog106.fc2.com/)。
詳しくはそちらをお読みいただければと思います。
とにもかくにも、我が国の「ワクチン後進国」たる現状は、まだまだ改善されていないということです。
世界標準に追いつくだけでも、なんと道の遠いことか。
流れに逆らってボートを漕ぐがごとき進みです。

今年は母子健康手帳の改訂議論があり、便色カードの収載がほぼ確実となりました。
これも大きな動きなのですが、ここに至るまでの「肝ったママ's」や成育医療センターの先生方をはじめとする方々の多大な奮闘を鑑みると、「どうしてここまでやらなくちゃ動かせなくて、そしてそれでもこれしか進まないのか」という感が否めません。
そして、これからもより使い勝手の良いカードへの変更や、省令様式のページに全国一律で収載されること、決して保護者が見落としたり使いこなせないことが無いよう、何より「より確実に」胆道閉鎖症を早期発見できることに資するものとするように、母子健康手帳のリニューアルをはじめ、医療機関や行政、保護者の皆さんへの啓発と活用の呼びかけを進めていく必要があります。
そしてその中心となるであろうと思われるのが、やはりここまで孤軍奮闘されてきた先に挙げた皆さんだったりするのですよね。
私としては引き続きの支援をしていきたいと思っていますが、ただ、何故彼女たち・彼らがいつまでも孤軍奮闘しなければならないのか、というやるせない気持ちも抱いています。

このような思いは、新生児マススクリーニングへのタンデムマス法の導入を求める活動についても同様に感じています。
タンデムマス法の導入は厚生労働省の課長通知で全国の自治体に求められていますが、そこに至るまでに多大な尽力をされてきた「ムコネットTwinkle Days」の中井さん、「先天性代謝異常症のこどもを守る会」の柏木さんをはじめとする患者会の皆さんや専門医の方々が、この通知が出た以降もタンデムマス法の必要性を訴え早期採用を働きかけ、そして早期発見後のサポート体制の構築・充実等にも並行して取り組まなければいけない現状に置かれています。

先に、「流れに逆らってボートを漕ぐがごとき進み」と書きましたが、日本という国を、子どもたちがより安全に健やかに暮らせるものにしていこうという活動全体にあてはまるように思えます。
医療だけではなく、福祉も教育も、様々な場面で抱く実感です。

では、誰か悪いやつがいて前に進むのを阻害しているのか、といえばそんなことはありません。
※まあ、少人数ですが価値判断ではなく事実評価を捻じ曲げてネガティブに動く人たちがいるのは事実ですが…
誰かが邪魔をするのではなく、何もしなければ相対的に逆行するのが社会システムだからです。
社会システムはその時その時の状況で最適化しなければなりません。
何故なら、社会構造や経済状況をはじめ、社会を構築する様々な要素が時間とともに変化していくからです。
社会とはそこに暮らす人たちの集合体であり、その人たちが必要とする支援等が変化すれば社会も変わらなければなりません。
その変化が遂げられないが故に生じるのが「ギャップ」です。
そしてそのギャップに落ちてしまい、そのギャップを埋める必要性を痛感した人たちが、肝ったママ’sの皆さんであったり、
ムコネットTwinkle Daysの皆さんであったり、先天性代謝異常症のこどもを守る会の皆さんであったりするのです。

確かにギャップに落ちてその危険性に気がついた人たちが声を挙げ行動すれば、ギャップを埋めることができるかもしれません。
しかし、そのギャップに落ちてしまったのは、落ちてしまった人に非があるわけではなく、殆どの場合、「たまたま」なんです。
それこそ「マイナスの宝くじ」に当たっただけで、その可能性はこの社会に暮らす全員に等しい設定です。
その「たまたま」に当たってしまった人たちが、そのギャップを埋めるために膨大な労力や時間、そして私費を投入して支えていかなければ成り立たない社会って、おかしいですよね。
おかしいですよ。

私は社会として、常にそのようなギャップを埋められるような自己修復の機能を組み込むべきなんじゃないかなと考えています。
その機能は、法律であったり組織であったり様々なものが想定できます。
大掛かりなものじゃなく、社会に暮らす人々のほんのわずかな意識が変わるだけでも、機能の一端を担えるのじゃないかなと思います。
不作為によりギャップを生じ、そのギャップに「たまたま」落ちてしまった人がそのギャップを埋める努力に忙殺されるのではなく、不作為を防ぐ社会になってほしいと願うものです。
そのために、微力かもしれませんが「+Action for Children」では、「知り」「考え」「行動する」を支えていきたいと考えています。
大きなギャップも小さなギャップも、たまたまそこに陥り、もしくはその存在にいち早く気づいた人が発する情報を、一人でも多くの方に伝えて知ってもらい、どうしたら改善できるのかを共に考え、そして実現のために行動することをサポートする、そんな活動です。

今年はホント、大して活動できませんでしたが、来年は今年よりも少しでも充実した活動を展開できるように努力していく所存です。
どうぞ今後ともご支援・ご指導の程、宜しくお願いいたします。

個人の経験は、あくまでも個人の経験

 ワクチン後進国からの脱却を目指し、予防接種やワクチン、そしてVPD(Vaccine Preventable Diseases=ワクチンで防げる疾病)について多くの方々により良く知っていただきたいと活動していると、しばし遭遇するのが「個人の体験=普遍的なこと」と勘違いしてしまうケースです。
いわく、
・「水ぼうそうなんて罹っても大したことはない。自分たちが子どもの頃は水ぼうそうワクチンなんて誰も打っていなかった。むしろ、自然に罹った方が良い」
・「おたふくなんて大したことはない。ほっぺたが腫れるだけ」
・「細菌性髄膜炎なんて滅多に罹らないよ。自分の周りでは罹った子どもなんて聞いたことないし」
・「インフルエンザワクチンを打ったけど、罹っちゃった。ワクチンなんて打っても意味が無い。それ以来、一切受けていないけど、インフルエンザに罹っていないし」
・「我が家は一切の予防接種は受けていない。だけども誰一人病気にも罹らずに健康に成長してくれた。ワクチンなんて打たなくても、食事等に気をつかって強い子に育てれば大丈夫」
 どれもこれも、一度は耳にしたことがあるという方も多いのではないでしょうか。私はいずれも耳にしています。なにせ、一番目の発言なんて私自身のものですから。いずれの発言も、発した個人にとっては事実を語っています。事実か嘘か、と言われれば、間違いなく事実です。個人の経験した事実を語った言葉なのです。

 でも、個人の経験した事実が別の人にとっても当てはまるかどうか、と言えば、必ずしも当てはまらないということは誰もが理解できることでしょう。
ある個人にとってそうだったからといって、別の人にとってはそうではない、ということは身の回りにも沢山あります。
例えば、
・商店街の福引で、前に割り込まれて順番がひとつ後ろになったら、一等のハワイ旅行が当たった。
・毎朝、トーストを食べているのに、その日はご飯を食べたら、通勤途中に車にはねられた。
・宿題をせずに学校に行ったら、担任が風邪をひいて休みだった。
・お酒を飲んで自動車を運転しているけど、事故を起こしたことは無い。
・がん検診なんて一度も受けたこと無いが、がんになっていない。
・ヘビースモーカーだが、がんになっていない。
 どれもこれも、ほとんどの方は「じゃあ、自分も!」とは思わないでしょう。寧ろ「たまたまだよ」と笑い飛ばすのではないでしょうか(4つ目の例えは笑って済ますことじゃないですが)。1つめの例なら「偶然でしょ」で済ませられそうですし、2つめの例なら「因果関係は?」と尋ねる人が多いでしょう。3つめは「結果オーライだったね」となりますが、「宿題をしなければ担任が風邪をひく」なんて思いませんよね。
 斯様に、一人の体験・経験談を普遍化できないというのは、多くの人にとっては「常識」だと思います。しかし、何故か予防接種・ワクチンに関することになると、個人の体験を普遍化するという勘違いに陥りやすいのです。

予防接種の恩恵はわかりにくい

 先ほどの例だと、商店街の福引なら、単純なくじ引きで確率の問題に過ぎないと多くの人は理解しています。2つめ、3つめの例なら、車にはねられること、担任が風邪をひくことといったアクシデントと、朝食の種類や宿題実施の有無が関係しないことを多くの人は理解しています。
 では、冒頭に述べた予防接種やワクチン、VPDにかかる個人の体験はどうでしょう。「そんな、たまたまだよ」と笑い飛ばせるでしょうか。いや、実際にはどれもが「たまたま」なのですけども、簡単に笑い飛ばせないなぁ、どうなんだろうなぁと判断に自信を持てない方も少なくないのではないでしょうか。私自身が一つ目の例えを胸を張って口にしていたように、殊、予防接種やワクチン、VPDに関しては、多くの人にとっては「わかっているようでわからない」ものなのだと思われます。

 予防接種もワクチンもVPDも、多くの人にとっては、その知識を学ぶ機会に乏しい事柄のです。学校の保健体育の時間に学ぶことがあるかもしれませんが、それとて人生の中でわずか数十分に過ぎないでしょう。なんせ、これらに最も関係深いと思われる小児科医ですら、予防接種やワクチンについては、授業でも一コマ位しか学ばないそうですから(さすがにVPDについては学ばれているのですけど)、小児科医以外にとっては「そんなの良くわからない」ものなのです。

 そもそも予防接種やワクチンの恩恵はとてもわかりにくいものです。多くの医療行為(医薬品の投与、治療行為等)が、マイナスの状態(疾病、負傷)をプラスマイナスゼロ(治癒)の状態に引き上げていく「プラス効果」であるのに対し、予防接種・ワクチンの恩恵は「ゼロをゼロのままに保つ」というもので、「抗マイナス効果」です。つまり、「何も変化を来たさなかった」ことがその恩恵であり、「変化」により恩恵を実感できるものとは異なり、恩恵を実感しにくいのです。

 VPDに罹患しなかった、それは果たして予防接種の恩恵なのだろうか?何も変化を来たさないことが予防接種・ワクチンの恩恵ですから、予防接種を受けてVPDに罹患しなかったとすれば、それは予防接種・ワクチンの恩恵である可能性があると言えます。同時に、打たなくても罹らなかった可能性もあるわけで、だったら本当に予防接種・ワクチンの恩恵なの?という疑問は当然のごとく湧き出る疑問です。
 VPDの原因となるウイルスや細菌が体内に侵入し、ワクチンによって得られた抗体によって罹患・発症が防がれる様子が目に見えると良いのですが、残念ながらリアルタイムで観察することは出来ませんし、そうそう単純なメカニズムでもなさそうです。となると、どうすれば予防接種・ワクチンの「見えない恩恵」を実感できるのでしょうか。
 実は、疫学的な観点で見ることで実感することができます。易学ではないですよ。疫学です。疫学というとちょっと馴染みがなさ過ぎるなあ、という人は統計学と置き換えて考えてみれば良いと思います(ちょっと乱暴ですが)。それではどうやって「見えない恩恵」を見るのか、というと、「予防接種をした場合としなかった場合を、集団で比較する」ということによります(これも乱暴な言い方ですが)。

 ワクチンを接種した集団を集団A、ワクチンを接種しなかった集団を集団Bとして、AとBの罹患率を比べてみます(それぞれの集団を100人とします)。Aが5人、Bが30人の罹患数だった場合、ワクチンを接種することでB-A、つまり30-5=25名の発症を防いだということになります。罹患者数が1/6になったということですね。このように集団を比較した場合、「25名の罹患を防いだ」、「罹患者数を1/6にした」、という事実はとてもわかりやすく誰の目にも明らかになります。
 では、この集団Aに属する個人をa1、a2、a3…a100とし、集団Bに属する個人をb1、b2、b 3…b 100としてみます。罹患した人から1,2,3と番号をふっていくと、Aではa1からa5までの5人は「ワクチンを接種したけど罹患した人」になります。一方、Bではb31からb100までの70人は「ワクチンを接種しなかったけど罹患しなかった人」になります。この人たち個々人にとっては、a1からa5は、「ワクチンを打ったけど罹患した。ワクチンは病気を防いでくれなかった」という経験が、b30からb100は「ワクチンを打たなくても病気にならない」という経験が、実際に経験した正しい事柄、になります。
 そう、もうお分かりですよね。個人の経験は、集団としての経験とは違った結果になることがあるのです。集団としてみた場合、ワクチンを打ったほうが疾病には罹患しないですし、ワクチンを打たなければ多くの人が疾病に罹患します。Aでは、5人の人にとっては95人の人とは違う経験を、Bでは70人の人が30人の人と違う経験をしているということになります。
 
 誰もが予防接種やワクチン、VPDについて十分な知識と理解を得ていれば、最初に例示した「たまたま」の話を全体に適用する過ちは犯さないかもしれません。そしてその十分な知識と理解のためには、「変化を来たさないこと」という見えにくい恩恵を可視化する疫学・統計学的見方が必要です。
個人の経験はあくまでも個人の経験に過ぎない、全体にそのまま当てはめるのは間違いのモト。多くの方に気にかけていただきたい注意点です。
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