不十分との指摘だけではなく、十分な点の評価も大切ですよね

不十分との指摘だけではなく、十分な点の評価も大切ですよね

日々、リビングのテーブルで勉強しています。

数学の特定の項目が苦手で、悪戦苦闘しています。

「なんでこうなるの?」

と私に尋ねてくることもあります。

その項目は数少ない私の得意分野で、私は得意げに(大人気ない!)、

「こうこうこうだから、こうなってあーなって、こうなるんだよ」

等と話したりします。

長男の受験勉強の様子を見ていたり、そしてその成果としての模擬試験の結果等を受けとったときなど、ついつい

「○○がまだできていない」

という事柄を指摘してしまいます。

「本番で○○が出たらやばいぞ」

等と言う事もあります。

長男も重々承知していることなのに、なんとくどいことか。

そんな時、往々にして、できていないことだけを指摘し、できていることを褒めることを忘れてしまうことがあり、反省しています。

100点満点のテストで90点を取ったら、90点分はできているんですよね(当たり前ですが)。

それなのに、真先にできなかった10点分を指摘して駄目出しで終わってしまう。

まずは90点の結果とそれに繋がった努力を評価すべきなんですよね。

できなかった10点分も、できた90点分の努力の延長線上にあるわけで、できなかった10点分をできるようにするためには、90点分の努力を認めることが必要です。

できたこと、できなかったことは、同じ努力から生じた結果なのですから、できなかった事柄だけに目を向けては努力全体を適切に評価することはできませんし、努力そのものへの適切な評価がなされなければできなかったことの改善も望めません。

勉強に限らず、スポーツでも仕事でも家事でも、それこそ行政の施策であっても、同じことが言えるのでしょう。

何らかの不十分な点を改善しようとするなら、不十分な点だけに目を奪われず、十分な点に目を向けること。

これが改善を実現するための前提なのだと思います。

できたこともできなかったことも両方に目を向け、全体を視野に入れて評価する姿勢を忘れずにいたいと思う今日この頃です。



2016年8月26日
ムコネットTwinkle Days 命耀ける毎日」に掲載

2016年8月26日
ハフィントンポスト日本版」に転載
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膨大な依存先を提供できる社会に

こんにちは、木曜日担当のPlus Action for Children 高畑です。

息子たちには、自立できる力を身につけて欲しい、そんな思いを日頃から抱いています。

以前は、私たち親のサポートが無くても生きていける、困らない、そんな風に考えていました。

あるとき、熊谷晋一郎さんのインタビュー記事、

自立は、依存先を増やすこと  希望は、絶望を分かち合うこと」(TOKYO人権 第56号(平成24年11月27日発行))

を目にし、はっとさせられました。

「実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態なのだろうと思います。だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。」

私は、誰にも頼らない、一人でも生きていけることが「自立」だと考えていましたから、もう、頭をガツン!とやられたような、そんな感覚でした。

自分自身のことを改めて考えると、なるほど、多くの依存先にサポートされながら生活しているんだと実感します。

そのサポートが受けられない、受けにくい状態に陥った方が生き難さを感じるのだと考えられるようになりました。

どのような状況に立たされても、複数の依存先を確保できる、サポートを受けられる社会であれば、私たちはそのような状況に立たされることを必要以上に恐れることなく、安心して社会生活を営むことができます。

自立が、何にも依存しないことではなく、多くの依存先を確保できることであるならば、特定の困難な状況に陥った人たちだけではなく、誰もが多くの依存先を確保する、サポートを受けられる社会であることが望まれます。

その中で、依存先が限定され、又は失ってしまい、サポートを受けることが困難な状況の方が生じたのなら、その方々が依存できる依存先を新たに提供できれば良いのですよね。

明石市の泉房穂市長のインタビュー記事

「「子どもの貧困対策をするつもりはない」と 対策先進市・明石市長が言う理由」(Yahoo!JAPANニュース2016年7月20日 9時54分配信)

では、明石市の行政サービスの姿勢が明らかにされています。

「なので、児童手当を該当する市民に行き渡らせようとすれば、またその機会を活用してご家庭のお困りごとを解決していこうとすれば、結果的にそこで浮かび上がってくるのは貧困家庭の子どもたちだったりするわけですが、それは結果であって、その子たちに向けてサービスをしているわけではない。

すべての子どもたちが対象です。 」

とあるように、全ての子どもたちにサポートを提供する、結果としてそこに困難な状況にいる子どもたちの存在が浮かび上がってくるので、その子たちに向けてサポートを提供する、ということなのですね。

自立と依存を対義関係と捉えるのではなく、膨大な依存を得られる状態が自立だと考えれば、誰もがどのような状況に置かれても依存先を複数確保できるようにすることが、誰もが自立した生活を送れる社会なのだということになります。

そして、依存先が限られ何らかのサポートを必要としている方が居たとすれば、それはその方の問題なのではなく、依存先を提供できていない社会の問題なのですよね。

私も何らかの事由で依存先を失う、サポートを受けられない、受けにくいという状態になることは十分に有り得ます。

どのような状況にあっても、十分なサポートを受けられるようであれば、安心して生きていくことができます。

自分が自覚せずに受けている膨大なサポートの存在を自覚し、そのサポートが不足していることで困難な状況にある人たちに十分なサポートが提供されるような社会となるように、これからも活動を続けていこうと思っています。

そして、息子たちには、私たち親だけではなく、社会の中に広く数多くの依存先を確保でき、自立できるような大人になれるように、アドバイスを送り続けたいと思います。



2016年7月28日
ムコネットTwinkle Days 命耀ける毎日」に掲載

2016年7月29日
ハフィントンポスト日本版」に転載

罹って抗体をつけるのはお勧めしません

こんにちは、木曜日担当のPlus Action for Children 高畑です。

新年度が始まり、何かと賑やかな時間を過ごされている方も多いと思います。

桜の花も関東では今週末が今シーズン最後の花見チャンスのようで、少しだけでも時間を作ってみてこようかなと思っています。

さて、10月からはB型肝炎ウイルスワクチンが定期接種化されるなど、年々定期接種の数も増えています。

我が家が子育て中には、ヒブ、小児用肺炎球菌、HPV(女子だけですが)、水痘は定期接種ではありませんでしたし、長男の時には水痘以外はワクチンそのものが我が国では承認されていませんでした。

ポリオも経口生ワクチンでしたが、現在は不活化ワクチンとなり、ワクチン由来のポリオ感染のリスクからは介抱されましたが(時間がかかりましたね)、接種回数は増えています。

これらをすべて単独で接種しようとしたらとてもじゃありませんが、接種しきれません。

子どもたちが予防接種による抗体を十分に獲得してVPD(Vaccine Preventable Diseases:ワクチンで防ぐことのできる疾病)から守られるためには、適切な時期に速やかに接種を受ける必要があります。

単独接種では時間がかかりすぎますよね。

そこで、混合製剤や同時接種の活用が大切となるのですが、しかし現状ではまだまだ混合製剤の導入は我が国では不十分ですし、同時接種を活用しても何度も接種のために医療機関に足を運ばなければならない状況には変わりありません。

そんな状況のためか、たまに「全ての定期接種を受けるのは大変なので、一部だけを受けたいのだけど」という相談を受けることがあります。

しばしば言われるのが「ヒブや肺炎球菌、ポリオは罹ったら大変だから受けるけど、麻疹や風疹、水ぼうそうは感染しても治療すれば大丈夫そうだから接種を見送ろうと思う」というもの。

VPDの重篤性や後遺障害を負うリスク等が高めのものだけを受けて、感染者の大半が軽症で済んだり適切な治療を受けることで回復するような疾病は受けない、ということのようです。

そして、「もしそれで麻疹や風疹、水ぼうそうに罹ったら、それはそれで予防接種よりしっかりした抗体を身につけられるからそれで良い」とも。

うーん...。

予防接種は個体を守ることに加え、集団免疫=社会全体で感染症を防ぐという意味合いもありますから、そういった選択はしないで欲しいな、と。

それと、もうひとつ、「自然罹患し回復すれば、予防接種を受けるよりも、結果としては良かった(より強い抗体を獲得できた)」という考えには、やはり賛同できないんですよね、私は。

予防接種を受ける手間隙とリスク、感染して治療を受ける手間隙とリスク、を比べたら、圧倒的に前者の方が小さいと思うことが第一。

第二に、感染したことで更なる疾病発症等のリスクを背負ってしまうことがあるからです。

水ぼうそうのウイルスが体内に残っていて、成人後に帯状疱疹を生じることは、最近では多くの方々もご存知のことと思います。

あまり知られていないことですが、麻疹(はしか)にも同じような疾病があり、これはSSPE(亜急性硬化性全脳炎)という疾病があるのです。

また、B型肝炎ウイルスも最近ではキャリアではないと考えられていた患者さんが、リウマチの治療薬や免疫抑制効果を伴う薬剤治療を行うことが、肝臓内でウイルスの活動を再び活発にし肝炎を生じるケースが増えていることも指摘されています(特定非営利活動法人 日本小児肝臓研究所のホームページで解説を読めます)。

これらのリスクは、自然罹患で抗体をつける場合にのみ伴うリスクであって、予防接種によりVPD罹患を防ぐことで回避できるリスクです。

こうしたことを考えると、私は「自然罹患し回復すれば、予防接種を受けるよりも、結果としては良かった(より強い抗体を獲得できた)」という考えには、やはり賛同できません。

子育て中、頻回にわたる予防接種はなかなか面倒くさいものでありますし、回数を減らせるものなら減らしたいという気持ちは良くわかります。

ただ、その気持ちは、必要な定期接種を回避することで減らすのではなく、混合製剤の早期承認・導入を求め実現することや同時接種の活用等に向けて欲しいと思います。

繰り返しになりますが、定期接種化されている疾病で、自然罹患したほうが良いものはありませんよ。



2016年4月7日
ムコネットTwinkle Days 命耀ける毎日」に掲載

2016年4月7日
ハフィントンポスト日本版」に転載

組体操の必要性と安全性・危険性、対応策を誰が評価・策定するのか

こんにちは、木曜日担当のPlus Action for Children 高畑です。

節分の2月3日、衆議院第一議員会館第会議室で開かれた、「組体操事故問題について考える勉強会」に参加してきました。

初鹿明博衆議院議員が中心となって開催したものです。

昨年11月には「学校管理下における重大事故について考える勉強会」と題する勉強会に参加しましたが、今回はこの中から運動会や体育祭で行われる「組体操」に焦点をあてたものとなっていました。

講師は名古屋大学大学院教育発達科学研究科准教授の内田良氏と、松戸市立病院救命救急センターの庄古知久氏です。

内田氏は日本スポーツ振興センター(JSC)の統計をはじめとする各種データや実例を基に、組体操における事故の実態がどのようなものなのかを解説されました。

庄古医師は、松戸市の救命救急センターを受診した患者さんの中から組体操によるものを抽出し、受傷機転や受傷部位、予後などを実例を交えながら説明され、また松戸市における組体操の状況を示しながら、現状の組体操の問題点を解決策を提示されました。

また、参加した地方議会の議員や国会議員、組体操でお子さんが事故に遭われた保護者の方などから発言があり、組体操の現状を学ぶ貴重な機会となりました。

今回の学習会における組体操に係る議論のポイントとして、

(1)組体操そのものの実施に係る事柄

(2)組体操事故に係る学校や教育委員会、行政の対応

の2つの柱がありました。

(2)については、事故の実際を正確に把握すること、そしてそれらの教訓に再発防止につなげること、組体操が孕む危険性等を多くの方に知らしめ共有化すること、等を阻む好ましからぬ現状(隠蔽体質等との指摘がなされていました)があるとのことで、これは組体操だけに留まらず、学校・教育の現場における様々な課題についても影響する課題だなと感じた次第です。

(1)については、そもそも組体操は学習指導要領に記載が無い種目なんだそうです。

ということは、サッカーや跳び箱など学習指導要領に定められている種目とは異なり、改めて「実施する必要性」と「実施することで生じるリスク」、「講じうるリスク軽減策」を評価、策定したうえで実施の是非を判断すべき種目だといえます。

「○○という教育効果が期待される」ことに対し、実施することで生じるリスクが適切に評価され、そのリスクの軽減策が実現可能性も含めて検討されたうえで、これらが比較考量されて「実施すべき」、「実施するならこのような対策を」、「実施しない」と判断されるものですよね。

ところが、この「実施する必要性」や「実施することで生じるリスク」、「講じうるリスク軽減策」は、十分に論じられているとはいえないのが現状ではないでしょうか。

東京新聞に、「<組み体操 事故なくせ> 義家文科副大臣に聞く」との記事が掲載されていましたが、安全配慮に欠いていたという認識は示されているものの、「危ないのは組み体操だけではない」、「仲のいい子、体力がある子同士で組み、余った生徒たちがペアを組まされることがあり得る。最上段にはバランス感覚がいい人間が上がらないといけない」、「事故が起きているのは組み体操だけでない。柔道、剣道などあらゆるところに規制を出さなければいけなくなり不健全だ」等と、「実施することで生じるリスク」、「講じうるリスク軽減策」を殆ど検証されていないままの現状を理解されていない様子が伺えます。

にも関わらず、「実施する必要性」については「全校生徒が羨望(せんぼう)のまなざし」、「私自身がうるうるきた」と何の指標にも基づかない主観だけの評価で「組み体操はかけがえのない教育活動で、悪いことではない」としています。

庄古氏が講演の中で「競技種目としてやっていけるのでしょうか」と表現されていましたが、組体操を学校教育の場で生徒が取り組む「競技種目」として捉えると、他の物と比して、著しくプリミティブな状況にあるという点に私自身は課題を感じます。

内田氏によると、組体操の危険性を指摘すると、「他の競技でも怪我はする」、「運動に怪我はつきもの」、といった反論があるそうです。

また、庄古氏は知人の整形外科医から「徒競走だって怪我をする。組体操を禁止するなら徒競走も禁止するのか」といった趣旨のことを言われたそうです。

いずれの反論も、程度問題や成熟度などを度外視した反論ですよね。

様々な競技が、リスクを軽減する、事故を防止するためのルールや道具の工夫、導入等を繰りかえしながら安全性を高める努力を重ねて現状に至っているのに対し、組体操はまだまだ程遠いといわざるを得ません。

また、例えばサッカーであれば日本サッカー協会が高温時の試合中の給水を徹底するよう各地のサッカー協会を通じて現場の指導者や保護者に伝達しているように、競技単位としてオーガナイズする主体が組体操には存在しないようです。

この点は内田氏にどこが主体となるべきかを尋ねましたが、やはり「文部科学省」である、と考えられているようでした。

残念ながら、文部科学副大臣が、「実施する必要性」や「実施することで生じるリスク」、「講じうるリスク軽減策」を十分に検討しないまま、自らの主観をよりどころに組体操問題についてインタビューに応えてしまっている現状では、現段階では「文科省」がオーガナイズを担う状況には無いと言えるでしょう。

文科省が担うのか、より現場に近い集団がその役割を担うのか、議論の余地はあるかと思いますが、このような体制やシステムを構築しないまま、組体操の禁止や規制だけで問題解決を図ろうとすれば、第二、第三の組体操が登場するのも時間の問題だと危惧します。

20人21脚、30人31脚といった競技、クラス全員で組む巨大ムカデ競争、競技が置き換わるだけで、「実施する必要性」や「実施することで生じるリスク」、「講じうるリスク軽減策」の検討が不十分なまま、危険な競技種目にが子どもたちが挑まされる状況自体は変わらないからです。

組体操問題は、学習指導要領に記載されていない競技種目が、その必要性や危険性等の検討を十分になされないまま教育の場に持ち込まれている一つの事例です。

その根底にある、「必要性と安全性・危険性、対応策を誰が評価・策定するのか」という課題を解決することが、子どもたちが晒されるリスクを軽減し、事故を防止することに繋がる一歩なのではないかと考えるものです。



2016年2月4日
ムコネットTwinkle Days 命耀ける毎日」に掲載

2016年2月5日
ハフィントンポスト日本版」に転載

量の概念

こんにちは、木曜日担当のPlus Action for Children 高畑です。

暑い日が続いています。暑さにも寒さにも弱い私にとっては、真夏の猛暑とクーラー効き過ぎが交互に襲ってくるこの時期が、もっとも体にしんどい季節です。でも、暑い夏は大好き!という、ちょっと面倒くさい奴でもあります。炎天下、嬉々として外に出ては、「暑い~」と融けそうになり、涼を求めて喫茶店などに入ると「寒い~」と言って、外に出て(以下、ループ)。こんな私に付き合ってくれる家族たちに感謝ですね。

さて、先日、こどもたちに「量の概念」について、話をしました。

「量の概念」というとなんだか小難しそうですが、具体的な事例を用いると、小学生でも十分に理解できます。

なぜ「量の概念」なんてことをこどもたちに話したのかというと、この「量の概念」が大きく揺らいでしまうと適切な選択、判断を成し難くなるからです。

例えば食品添加物。

現在、我が国の食品添加物の使用は基本的に厚生労働大臣が定めたもののみが使用されており、かつその使用量についても明確な基準が設けられています。

この基準は十分に安全性を担保する内容となっていて、一般的には実験動物に一生食べ続けさせても健康に害を及ぼさない最大量(無毒性量)の1/100の量を「ADI」として設定し(この量を毎日食べ続けても健康に害を及ぼさないという一日あたりの接種許容量)、そのADIに対しさらに低い値で使用量の基準を設けています。

実際に私たちが口にする食品からどれ位の食品添加物を摂取しているのかということも調査されており(※マーケットバスケット方式による年齢層別食品添加物の一日摂取量の調査)、結果からは一日あたり摂取量(ADI)に対し1%にも満たないものが殆どであることがわかっています。

その量を毎日食べても健康に害を及ぼさないという食品添加物の一日あたりの摂取量がADIですから、そのさらに1%にも満たない量というと、どれだけ現在の食品添加物が安全性を重視して規制されているかが理解できると思います。

では、ある食品に使用された食品添加物の量が、規制値の10倍だったとします。

ここで、量の概念が身についているか否かで、この事柄についての反応が大きく違ってしまうことがあります。

「基準に反してしまった」という事実よりも、「10倍」という数字(倍率)に驚き、その数字が意味する事実を適切に理解することなく、健康への影響を恐れてしまう、といったケースです。

基準を大幅に超えていることが明らかなのですから、何故そのような状況になったのかという原因究明と再発防止は不可欠です。

そのような観点からは決して看過できない出来事といえます。

一方で、その食品を口にしてしまった、としたらどうでしょうか。

例え基準の10倍だとしても、毎日摂取し続けても害を及ぼさないADIを超える数値には到底及ばず、健康への影響を心配する必要性は極めて低い(というか、心配しなくても良い)と思われます。

にも関わらず、「やばい」「大変だ」と反応してしまうことって、案外珍しく無いんですよね(私もそういうときがあります)。

量の概念が欠如している場合は、リスク等の見積もりが往々にして不正確になりがちです。

そのため、本来は無視しても良い程度のリスク(リスクという表現自体が不適切かも知れませんね)を避けることを優先し、本当に避けるべきリスクを避けそこなったり、不必要に新たなリスクを抱え込んだり、ということにもなりかねません。

こどもたちには、「○○倍」とかいう時は、そのもとになる数字もちゃんとみておくんだよ、と話しました。

1gが2gになっても倍、1kgが2kgになっても倍、500kgが1tになっても倍、だけどそれぞれ違いは、1gと1kgと500kgです。

運搬する荷物の重量なら、1gは無視しても良いですし、1kgは頑張れば対応できますが、500kgは無視できませんし頑張りだけでは対応できません。

「2倍」だけでは、その差を正確に把握することはできないんだよ、と。

単位と桁も大切だ、ということも話しました。

1kgと1000gなら同じだけど、単位の前につく数字は1000倍違います。

また、億と兆では1万倍違うのですが、個人のお金の感覚からするとどちらも「大金」なんですよね(違いとしては1万円と1円の違いと同じなんですけど)。

こどもたちに上手く伝えられたのか、理解を促せたのかは定かではありませんが、これからも折に触れ意識付けしていきたいと思っています。



2015年8月6日
ムコネットTwinkle Days 命耀ける毎日」に掲載

2015年8月6日
ハフィントンポスト日本版」に転載

妊婦さんとTORCH症候群

こんにちは、木曜日担当のPlus Action for Children 高畑です。

「リンゴ病」が流行している、と報じられています。

「リンゴ病」患者報告数、6週連続増-最多の東京、一部地域で警報値超過(医療介護CBニュース )

リンゴ病は「伝染性紅斑」という疾患の別称で、パルボウイルスB19が原因とされています。

■伝染性紅斑(IDWR:感染症の話)

小児期が中心の疾病ですが、成人でも罹患することがあるそうです。

注意しなければならないのが妊婦さんです。

妊娠初期の妊婦さんが罹患した場合、風しんと同様に胎児に影響を及ぼす恐れがあります。

ワクチンで予防できる疾病では無いため、風しん等のように予防接種で防ぐというわけにはいかないので、流行している時期に流行している場所を避けるなどの対処しかないのですが…。

それでも、どのような疾病なのかを知っておくことで、罹らないように工夫することもできますし、罹患する確率を避けることもできます。

妊婦さん本人だけではなく、周囲の人たち、つまりは社会全体でこの感染症についての知識を身につけておくことが必要です。

妊娠中に気をつけるべき感染症として、

「TORCH症候群」

というものがあります。

■TORCH症候群とは?(先天性トキソプラズマ&サイトメガロウイルス感染症患者会「トーチの会」)

麻疹や風疹、B型肝炎等のワクチンで防ぐことができる疾病(VPD:Vaccine Preventable Diseases)もあれば、伝染性紅斑(リンゴ病)やトキソプラズマ感染症、サイトメガロウイルス感染症等のワクチンでは防ぐことができない疾病もあります。

ワクチンで防げる疾病であれば予防接種で防ぐという非常に有効な予防策があるのですが、そうではない疾病はそれ以外の工夫で感染リスクを下げるしかありません。

そういった意味では、VPD以上にその疾病についてその原因や感染ルートなど、その感染症そのものについてよく知っておくことが大切といえるかも知れません。

例えばトキソプラズマであれば、特殊な環境ではなく肉や猫の糞、公園の砂場など土の中に当たり前にいる原虫であることを知り、肉は十分に火を通すことや猫を飼っているならできるだけ室内飼いにしたりトイレの清掃をこまめに行ったり(妊婦さんじゃなく旦那さんが掃除するとか)するなどの工夫だけでも、感染リスクを下げることができます。

今回、伝染性紅斑(リンゴ病)の流行がニュースで報じられたように、以前よりもこうした感染症に係る報道が増えているように感じます。

とてもありがたいことです。

そして、こうした疾病についての情報発信も増えています。

特にこうした疾病に罹患した苦い経験を持つ患者会の方々が発信する情報は、これら疾病のプロフィール以上の貴重な経験を伝えてくれます。

先天性トキソプラズマ&サイトメガロウイルス感染症患者会「トーチの会」

風疹をなくそうの会『hand in hand 』

こうした情報からこれらの感染症についての知識を得て、妊婦さんと子どもたちを感染症から守りたいものです。

Plus Action for Childrenは、趣旨に賛同いただいた皆様からの賛助会費並びにご寄付を主な収入源として活動しております。

活動の趣旨に御賛同いただける皆様からの御寄付、賛助会員登録をお願いいたします。

入会をご希望される方は、必要事項(氏名、振り仮名、住所、電話番号、メールアドレス)を記載したメールを送信の上、下記の口座まで会費をお振込みください。

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一般社団法人 Plus Action for Children( シャ)PLUS ACTION FOR CHILDREN )

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2015年4月16日
ムコネットTwinkle Days 命耀ける毎日」に掲載

2015年4月16日
ハフィントンポスト日本版」に転載

リビングで学習

こんにちは、木曜日担当のPlus Action for Children 高畑です。

我が家の子どもたちは、自分の学習机ではなく、なぜかリビングのダイニングテーブルで学校の宿題などに取り組むことが多いんです。

私自身は誰か他に人がいると気が散ってしまうので、自分の部屋で勉強していました。

図書館での学習というのも苦手で、予備校の夏期講習なども「自分には合わなさそう」という理由で一度も受講したことはありません。

なので当初は、「リビングで勉強していたら集中できないんじゃないかな」なんて思っていたのですが、子どもたちの様子を見ていると、意外と集中して勉強しているようなので「まあ、いっかぁ」と容認していました。

最近では、むしろ「リビングで勉強するのもよいものだなぁ」と思うようになってきました。

ちょっとわからないことがあって、考えても糸口がつかめないようなときに、「ちょっとこれ教えて」と親にすぐに聞くことができるんですね。

で、「どれどれ」と覗いてみて、解決のヒントを示してみます。

そして、「そうか、●●を出せれば、面積も出せるから...」と先に進めたりします。

英語などでも、「この●●っていう単語は、文のここにあるときは通常とは別の役割があってね」とかヒントを出したり。

これを親子間だけではなく、兄弟間でも展開することもあるので、「勉強部屋にこもっていたら、こうはいかないよなぁ」と思い直した次第でした。

そんなこんなですっかり定着したリビング学習ですが、副産物として「辞書」と「パソコン」がリビングに鎮座するようになりました。

ただでさえ狭いリビングなんですが、益々ごちゃごちゃしてきました。

というのも、ヒントで解決の糸口を見出したら、あとは「自分で調べる」ことを求めているからです。

自ら辞書をひく、原典にあたる、という作業は、時間はかかりますけど、ピンポイントで回答だけを得た場合に比べて得られる情報は多くなりますし、「調べる」というスキルそのものを高めることも期待できます。

リスクとしては、ノートパソコンが汁物によって汚されてしまうリスクが極めて高くなることですね(^^;

リビングで子どもたちが学習し、その様子を眺めたり質問に対応したりしていると、彼らの試験での結果に至る過程や、その結果に至った理由などが以前よりも良くわかるようになってきました。

もしかしたら、これが最大の副産物かも知れません。

結果だけではなく、過程を知ることって、有意義ですよね。

そんなこんなで、まもなく春休みを迎えるうちの息子たちが、リビングで過ごす時間は益々増えそうです。

一番、影響を受けているのは、賑やかな子どもたちに安眠を邪魔される7匹の猫たちかも。



2015年3月19日
ムコネットTwinkle Days 命耀ける毎日」に掲載

2015年3月19日
ハフィントンポスト日本版」に転載

伝えていくということの大切さ

こんにちは、木曜日担当のPlus Action for Children 高畑です。

もうすぐ3月11日を迎えます。

東日本大震災から、丸4年。

多くの方々が、まだその当時の多くの出来事を鮮明に記憶しているのではないでしょうか。

当時、幼稚園児と小学生であった息子たちも、まだ当時のことをはっきりと覚えているそうです。

一方、阪神・淡路大震災からは20年が経過し、当時を知らない世代も増えてきて、また記憶も徐々に薄れつつあることが指摘されています。

私自身は成人していたこともあり、横倒しとなった高速道路の高架や、神戸の市街地から上がる黒煙、横倒しとなったビルなど、未だに鮮明に思い出すことができますが、震災後に生まれてきた息子たちは、「たまにテレビで観る遠い過去の出来事」と思っているようです。

私は1971年の生まれですから、息子たちにとっての阪神・淡路大震災がそうであるように、関東大震災などは、たまに報道で目にしたり、大人から話を聞いたり、学校の社会科の授業などで触れる位で、「遠い過去の出来事」と感じていました。

「ああ、そういうことがあったんだな」という印象にとどまり、自らの身にも起こりうる、当事者となりうるとは想像できませんでした。

そして、漠然と根拠無く「当時と今は違う。科学も工学も発達し、当時と同じような被害は被らないのではないか」と思い込んでいたような気がします。

私の父は、独身時代にチリ地震による三陸津波を経験しています。教師として岩手県沿岸部の都市に赴任していたのだそうです。

津波が来たときには海のそばにいて、あわてて高台に逃れて九死に一生を得た、としばしば話してくれました。

「津波っていうのは、普通の波とは全然違うんだ。津波から走って逃げられるなんて思うなよ。津波が来ると思って、海岸から遠く、高いところに逃げるんだ」と、最後はいつも注意を促していました。

東日本大震災では、津波による甚大な被害が生じました。

チリ地震による三陸津波の経験を活かせた部分も、残念ながら活かせなかった部分もあったと思います。

私自身が、震災時に被災地に居たらどのような行動をとったのか、考えても答えはでてきません。

父の世代から伝えられた教訓を活かせたのか、はたまた活かすことができなかったのか。

教訓を活かすことができるかどうか、ということはとても大切です。

そしてその前提として、「次世代に伝え続けること」が必須です。

私たちは、過去の苦い経験を次世代に繰り返させないためにも、教訓を活かしてもらうためにも、伝え続けなければならないのだと思います。

予防接種と感染症の歴史においても言えることであり、ワクチンの開発と予防接種制度の充実により、過去に人類を苦しめた感染症のいくつかが日常的にはあまり目にすることが無いほどに排除されています(天然痘は撲滅されました)が、そのことが結果としてその感染症の怖さを知らない、という状態につながっています。

年配の方々からは、「夏休みがあけると、登校してこないクラスメートがいるんだよね。何故だと思う? 日本脳炎に罹って命をおとしたからなんだよ」という話を聞く機会があります。

また、麻しん(はしか)で幼い兄弟を亡くした、という辛い経験をお話ししていただくこともあります。

私にとって、日本脳炎は知人で罹患した人が居ない疾病ですし、麻しんも、命を落とすほどの疾病だという印象は実感としてはありません。

しかし、衛生環境の改善や医療・予防接種の充実などでこれらの感染症が排除されつつある恩恵を受けているだけであり、これらの感染症による脅威は、依然として私たちの身近にあるのです。

私たちはどうしても、直接的に目にしたもの、経験したものは強く印象に残るものの、そうではないものについては、ついつい忘れがちであったりします。

これは人間という生物の性質上、避けられない現象なのでしょうが、だからこそ、繰り返してはいけない苦い経験・体験を、次世代に伝え続け、意識の中に置きつづけて教訓としていかせるようにしていかなければならないのだと思います。

子どもの頃に大人たちに聞かされた戦争の話、震災などのこと、当時の私は「つまんない話しだなぁ」なんて、今思えばとても不謹慎なのですが、感じていました。

しかし、大人となった今では、それらの話から得られた事柄がとてもとても大切なことだったのだと、実感したりしています。

子どもたちにとっては、辛く暗い過去の話はあまり面白くないものでしょう。

けれども、自分自身がそうであるように、彼らが生きていく未来において、それらの教訓が活かされる場面がやってくるかもしれません。

毎年この季節になると、改めて「伝えていくことの大切さ」を再確認させられます。

私も息子たちに、「つまらないなぁ」と思われても良いので、伝えていきたいと思います。



2015年3月5日
ムコネットTwinkle Days 命耀ける毎日」に掲載

2015年3月5日
ハフィントンポスト日本版」に転載

適切に怖がるために

こんにちは、木曜日担当のPlus Action for Children 高畑です。

日々、様々なリスク情報を目にします。

感染症、自然災害、食にまつわる出来事、テロ、事件、etc...。

自分や家族、近い人たちの身にも降りかかるかも知れないリスクがあると思うと、どうしても不安を感じてしまいます。

多くのリスクは「ゼロ」にはできないので、「怖い」という恐怖・不安(や安心)を完全に無くすことは困難です。

また、そのもととなる「リスク」には多くの場合は不確実性があるため、不安を完全にコントロールすることも難しいです。

そしてその恐怖や不安は、私たちの日常生活上の「判断」にも影響を及ぼします。

どうしてもリスクを避けたい、という思いから、必要以上の回避行動をとってしまい、逆に他のリスクを増大させる、なんていうことも珍しくありません。

逆に、不安を抱くことから逃れようと、根拠無く「安全だ」とい思い込み「安心」を得ようとすることで生じるリスクもあります。

また、こうしたリスクの過大評価や過小評価は、自分自身だけではなく、他者をも不幸にすることがあります。

不安に不十分な理解や誤解が伴うことで、差別等を生み続けてきた過去と生み続けている現在があります。

だから、リスクやそれに対する不安と適切に付き合うことが大事です。

不安と適切に付き合うために、その不安を生じている「リスク」を理解する、把握することが必要です。

「この先危険」という看板がある道を、「危険がある」という情報以外の情報を得ずに暗闇の中で進まなければならない場合と、その道の「どこ」が「どの程度」の危険を孕んでいるのかを知った上で進む場合とは、感じる不安には大きな違いがあります。

リスクの正体を理解・把握し、抱く不安を過大でも過小でもなくすることで、日常生活における様々な判断もよりリーズナブルなものになります。

この「リスクの正体を理解・把握する」ためには、量の概念や確率などを理解することや、「無いことは証明できない」という論理の原則を踏まえておく必要があります。

これらを身につけ、さらには玉石混交の情報の中から、信頼できる情報を選び出すスキルも求められます。

Plus Action for Childrenでは、「適切に怖がる」ために必要なこれらを身につけられるよう、これからも学習会などを重ねていきます。



2015年2月5日
ムコネットTwinkle Days 命耀ける毎日」に掲載

2015年2月5日
ハフィントンポスト日本版」に転載

子どもに話すために

こんにちは、木曜日担当のPlus Action for Children 高畑です。

家族の健康維持のため、しょうがをスープにしのばせる毎日。

そこに、長ネギが追加され、とうとう「ねぎスープ」と相成りました。

具は玉ねぎと長ねぎとベーコン(orハムorウインナー)、味付けは塩とコンソメorウェイパー、摩り下ろしたしょうがを加えて、仕上げはごま油をポタリ。

玉ねぎは薄くスライスし、長ねぎは白髪ねぎのようにカットします。

長ねぎ嫌いの次男坊も、このスープなら「美味しい」と言って食べてくれます。

家族が喜んでくれると、嬉しいもんですね。

さて、様々なニュースが飛び交う毎日の中で、息子たちが興味を示して「●●ってニュースで流れていたけど、どういうことなの?」という質問を受けることがあります。

また、私自身が子どもたちに関心を持ってもらいたい事柄についてニュースで報じられていると、「ちょっとこのニュース観てごらん」と言って子どもたちに視聴を促すこともあります。

そうしてそのニュースや事柄について親子の会話が始まるわけですが、その中で私が気をつけていることが「事実とそれに対する評価・価値判断を峻別すること」と「多様な価値観があること」、そして何より「事実を正確に伝えること」です。

この「事実を正確に伝えること」が、なかなか大変です。

事実を正確に伝えるためには、私自身がそのニュースや事柄について、事実を理解していなくてはなりません。

制度、仕組み、文化、歴史、科学、etc....。

とりわけ長男は中学生になってから、関心の幅が広がっているので、必然的に私もその幅に応じられるように様々な事柄を学びなおす必要に迫られています。

この歳になっても、まだまだ勉強なんですね(^^;

おかげで、読書のジャンルが広がっています。

子どもの頃、色々なことを良く知っていて、「すごいなぁ」と思っていた祖父。

今、思い返すと、いつも傍らには様々な書籍があったなぁと。

余談ですが、自分自身が中高生だった頃、日本史も世界史も地理も、全く興味がありませんでした。

「どうせ、社会に出てから役に立たないでしょ」なんて言ってみたり。

これらへの正しい理解が現在を理解するためにも必須だったのだと、今はすごく後悔しています。

逆に理科等は単純に「楽しい」って思っていて好きだったのですが、これまた現在を理解するのにとても大切な事柄だったと実感しています。

子どもたちに話すために、事実を正確に理解する必要性に迫られ、今さらながら「学ぶ」ことの大切さを実感している40代の私でした。



2015年1月29日
ムコネットTwinkle Days 命耀ける毎日」に掲載

2015年1月29日
ハフィントンポスト日本版」に転載

ニセ科学がダメな理由

こんにちは、木曜日担当のPlus Action for Children 高畑です。

いよいよ師走です。

何かと気ぜわしくなる季節ですし、実際に多忙を極める方も多いと思います。

気温が低く乾燥しがちなこの季節は感染症のリスクも高くなりますし、忙しい中でも十分な睡眠、休養、栄養摂取を心がけたいですね。

さて、今回のタイトルは「ニセ科学がダメな理由」です。

「ニセ科学」って何?っていう方もいらっしゃると思います。

公式な定義ってされていないと思いますが、私は「科学的ではないのに、科学を装うもの」と考えています。

「無いことを証明する」ことは「悪魔の証明」ともいわれ、無理難題の類とされています。

この世に人の言葉を話すヘビが居ない証明をしようとしたら、地球上のすべてのヘビを確認して「ほら、1匹も話さないじゃん!」というプロセスを経なくてはなりません。

「無いことを証明する」ことは無理なのですから、「ある」と証明されたもの以外は「無いものと見なす」と考えるのがリーズナブルです。

しかし、残念ながらこのような考え方は社会全体で共有されているとは言い難く、「あるかも」という類の話が、あたかも「事実」であるかのように認知され広がっていくことがあります。

そういった話の中に、存在について「科学を装った」論理をまとって広がっていくものがあります。

私はそういったものを「ニセ科学」と考えていますし、それらはどうしても許容したくないんですね。

「ニセ科学」とされるものは、「確かに存在する」という証明が伴っていないにも関わらず、あたかも科学的に存在を説明できるかのような「理屈」をまとっています。

しかし、現在の科学的知見からは「ある」とは証明できないものを、「ある」というのですから、今ある「科学」とは異なる論理を必要とします。

この「今ある『科学』とは異なる論理」は、必然的に「今ある『科学』」と矛盾しぶつかります。

したがって、「ニセ科学」と「科学」は共存しがたい存在になるのです。

「ニセ科学が正しいと考えようとすればするほど、人類が積み上げてきた科学から離れていく」、私が「ニセ科学がダメな理由」と考える大きな理由のひとつがここにあります。

ニセ科学は、「善意」や「感動」を伴うエピソードとセットになっていることがあります。

それが、よくよく考えると「ファンタジーだよね」という事柄であっても、「事実」としたまま、「怪しいけど、悪い話じゃないから、まあいいか」と黙認されたりすることにつながります。

そして、「こんな良い話があるのだよ」という情報の伝達に乗っかって、拡散していきます。

善意による黙認も、感動による誤解も、ニセ科学の正当性を補強することはできません。

残念ながら、このように拡散していくニセ科学は、より科学的に正しい方向へ進むのではなく、ニセのまま、拡散されていくのです。

ニセ科学は、科学的な正当性を装う限り、既に証明されている科学とはいずれ矛盾していきます。

矛盾が拡大していくと、いずれ「どちらを『信じる』のか」という選択を強いられる場面が近づいてきます。

その選択時に「感動」や「善意」が作用してしまうと、人は意外なほど簡単に、ニセ科学を選択し、確かなものを捨て去ります。

このことは、ニセ科学を選択することというよりも、人類が積み重ねてきた英知を捨て去ること、と考えるべき危険な行為です。

ニセ科学は、現在の科学と矛盾する論理を正しいと主張するが故に、同じようなニセ科学同士で論理を補強しあう傾向がありますので、ひとつのニセ科学を鵜呑みにしてしまうと、それと補強しあうようなニセ科学を次から次へと受け入れやすくなってしまいます。

そのため、ニセ科学にはまっている人は、何から何までニセ科学、という状態になりやすいといえます。

故に、「感動」や「善意」からであっても、私は小さなことであっても「ニセ科学はダメ」と考えています。

その「小さなこと」を容認してしまったら、その先には「論理を補強しあうニセ科学」がわんさかと待っているからです。

医療や食、環境など、特に小さな子どもを育てている保護者にとっては、できる限り「リスクを避けたい」、「より安全なものを」という欲求があります。

残念ながら「ゼロリスク」というのはありえず、量・確率といった「程度の問題」としてリスクと向き合わなければならないのですが、ニセ科学は平然と「ゼロリスク」を掲げたりします。

リスクを軽減したいという思いと、ゼロリスクを掲げるニセ科学は、どうしても接触する機会が増えていきます。

しかし、ニセ科学を選ぶことは更なるニセ科学を受け入れやすくし、より確かなものを捨て去る危険を伴います。

子どもたちから、「確かなもの」を遠ざけることのリスクを考えたら、子育て世代の私たちは、より「ニセ科学」に対して神経を尖らせていたほうが良いのではないでしょうか。

今年の流行語大賞は「ダメよーダメダメ」でした。

「ニセ科学」も「ダメよーダメダメ」です。



2014年12月4日
ムコネットTwinkle Days 命耀ける毎日」に掲載

2014年12月4日
ハフィントンポスト日本版」に転載

予防接種の恩恵は

こんにちは、木曜日担当のPlus Action for Children 高畑です。

インフルエンザシーズンを控え、インフルエンザワクチンの接種に係るニュースや情報が増えてきました。

インフルエンザワクチンは、ヒブワクチンやMRワクチン(麻しん・風しん)等と異なり、接種したから概ねインフルエンザに罹らなくてすむ、というものではありません。

接種してもインフルエンザに罹患する可能性はそれなりにあります。

「ワクチン打ったけど、インフルエンザに罹ったよ」という話も毎年毎年耳目にします。

個人の実感では効いているのか効いていないのか、わかりにくいのがインフルエンザワクチンです。

そんなインフルエンザワクチンが話題の入り口になっているからでしょうか、「ワクチンなんて、打ったって意味無いじゃん!」的な意見も少なくありません。

先述のように、ワクチンにも様々な種類がありそれぞれに有効性も安全性も異なるわけですから、十把ひとからげに「ワクチンなんて」と言い切れるものではないですよね。

まあ、単純な二分法で「ワクチン」は「効かない」とか、「無駄」とか「危険」と言い切っている情報は、それだけで無視しちゃえば良いと私は思っています(もちろん、絶対に安全とか100%効くといった言い切りも、無視して良いですよね)。

先日、webを眺めていたところ、ちょっと気になった意見がありました。

「健康な体にワクチンを打って、副作用で体調を崩すんだから、ワクチンにはリスクしかない」

といった趣旨のものでした。

もう、このブログの読者の皆様ならお気づきですよね。

この意見には、ワクチン接種のリスクと比較すべきもうひとつのリスクが抜け落ちているのです。

予防接種は何を目的に行うのか、といえば、

「ワクチンで防ぐことのできる疾病(VPD:Vaccine Preventable Diseases)に罹患するリスクを軽減する」

ことにあります。

予防接種についてリスクを論じるのであれば、接種するリスクと接種せずにVPDに罹患するリスクの双方を勘案しなければいけません。

これらは互いに不可分なリスクなので、一方のリスクだけを避けてもリスクをゼロするというはできないことなんですよね。

先の意見には、この「接種しないリスク=VPD罹患のリスク」が抜け落ちているのです。

確かに、予防接種は体調が良いときに行うもので、その時点で生じるのは「接種するリスク」だけですし、どうしてもそちらのみ目が向きがちです。

一方、「接種しないリスク」はそれ以降の生活に常に付きまとうリスクなのですが、接種の時点ではなかなか想像し難い面があります。

ましてや、「VPDに罹患しない」という予防接種の恩恵は、健康な状態で接種してその後も変化を来たさない、という形でもたらされますので、とても実感しにくいものです。

わかりやすい「接種するリスク」と想像することが容易ではない「接種しないリスク」、そして実感しにくい「接種する恩恵」。

個人の実感ではなかなか効果を実感しがたいインフルエンザワクチンを念頭に予防接種について考え始めると、余計、接種しないリスクと接種する恩恵は見えにくくなるのかも知れませんね。

繰り返しになりますが、「予防接種」、「ワクチン」といっても、防ぐことが期待される疾病も違えば、ワクチンの種類も有効性も安全性も異なります。

同じ疾病を防ぐためのワクチンであっても、異なる製品というのも珍しくありません。

これらを一括りに論じることは、個々のワクチン、予防接種を受けるか否かという判断に、何も寄与しない議論です。

個々のワクチンについて考えるためには、それぞれが防ぐ事を期待されるVPDについての知識が必須です。

インフルエンザシーズンを控えたこの時期だからこそ、今一度、VPDについて情報を得ていただき、一つ一つのVPD、ワクチンについて理解を深めていただければと思います。



2014年10月23日
ムコネットTwinkle Days 命耀ける毎日」に掲載

2014年10月24日
ハフィントンポスト日本版」に転載

(2014年)10月1日から水ぼうそう(水痘)が定期接種になりました

こんにちは、木曜日担当のPlus Action for Children 高畑です。

昨日より10月、新たな月が始まりました。そして、水ぼうそう(水痘)が、予防接種法による定期接種A類となりました。

(成人用の肺炎球菌ワクチンも、定期接種化されています)

私たち保護者の世代にとっては、自分自身が水痘ワクチンを接種した、という経験はあまりないのではないでしょうか。

私が生まれたときには、まだ水痘ワクチンは存在しませんでしたし、私は水痘に罹患しています。

水痘といえば「ぶつぶつができる」「一度罹れば免疫ができて二度と罹らなくなる」といった特徴をもつ、ありふれた感染症というイメージが一般的ではないでしょうか。

中には、「小さなうちに罹って免疫を得ていたほうが良い」と考えて、近所で水痘にかかったお子さんがいると聞くと、わざわざ我が子を連れて行ってうつしてもらってくる、なんていう方もいるくらいだそうです。

しかし、水痘は侮ってはいけない感染症です。

厚生労働省ファクトシート

NPO法人 VPDを知って、子どもを守ろうの会

「年間罹患数100万人程度に対し、最低でも4000人程度が重症化により入院し、20人の死亡者数が出ると推定できる(水痘ワクチンに関するファクトシート:厚生労働省)」

とあるように、重症化、死亡等のリスクは決して小さくありません。

大人になって発症する帯状疱疹も、過去に罹患した水痘のウイルスが体内に残っていることが原因のひとつとなりますし、水痘は単に「ポピュラーな感染症」にとどまらず、ましてや「罹ったほうが良い」疾病でもなく、積極的に「予防」すべき感染症です。

また、罹患者数がかなりの多数に及ぶことからもわかるように、水痘は感染力が強い感染症です。

そのため、小児科病棟等にウイルスが持ち込まれると、ただでさえ様々な疾病などの治療中で免疫力が低下している入院患児の間で集団感染が生じる危険性があります。

入院患児においては重症化等のリスクが高くなるため、小児病棟に水痘ウイルスを持ち込むことは絶対に防がなくてはなりません。

「自分が子どもの頃は、水痘ワクチンなんて接種しなかったし、自分自身も周囲の人たちも多くの人が感染したし、重症化もしなかったし。だから接種しなくても良いんじゃない?」、と考えてしまうかも知れません。

しかし、先に書いたように、水痘は決して侮ってはいけない感染症です。

水痘ワクチンが存在しなかった時代、定期接種化されていなかった時代と比べることに意味はありませんし、そういった時代背景における自分自身の経験は、接種を見送る理由にはなりません。

子どもたちを水痘から守るために、水痘と水痘ワクチンの定期接種について、ぜひ情報を得ていただければと思います。

【実は...】

上の赤字の部分は、私が長男についてかみさんから「水痘ワクチンの任意接種、受けたほうが良いかなぁ」と相談されたときの、私の回答です。

長男が細菌性髄膜炎に罹る前のことで、子どもたちの予防接種や感染症に、特段の興味を持っていないときのことでした。今となっては本当に「恥ずかしい」考え方です。

ちなみに、長男は水痘ワクチンを接種しています。

今の活動を行うにあたり、恥ずかしい過去も見つめなくちゃと思い、長男の母子手帳を確認したところ、既に接種してありました。

かみさんは私の意見は採用しなかったんですね。

喜んでよいのやら悲しんでよいのやら...。

でも、長男にとっては、喜ぶべきことでしょうね(^^;





2014年10月2日
ムコネットTwinkle Days 命耀ける毎日」に掲載

2014年10月1日
ハフィントンポスト日本版」に掲載

雑感:議論することと個人を否定すること

こんにちは、木曜日担当の+Action for Children 高畑です。

5月はサッカー三昧にさらに拍車がかかっています。というのも、長男は全日本少年サッカー大会千葉県予選と千葉市少年サッカー大会が並行して行われていて、次男は千葉市美浜区大会に参加しているから。3つの大会が並行しているので、子どもたちは大変。そして私は毎週、子どもたちのサッカーが観られるので大喜び。毎週末、ビールが美味しいです。

と、充実した日々を送っているのですが、最近のウェブ上での情報やメディアの情報に触れて、ちょっと考えてしまいました。今回はその感じたことを、雑感として綴ってみます。

長男がVPD(Vaccine Preventable Diseases)であるヒブによる細菌性髄膜炎に罹患し大変な思いをさせてしまった反省から、私は無関心や不作為といったものを意識してしまうようになりました。長男が細菌性髄膜炎に罹患した2004年、我が国ではヒブワクチンは承認すらされていませんでしたが、他の多く国々では無料で全ての子どもたちがヒブワクチンの接種を受けられる環境にありました。これが「ワクチン・ギャップ」と呼ばれる状態です。

ワクチン・ギャップは、誰かが意図的に「日本のワクチン環境を遅らせてやろう」と行動して生じたものではありません。誰も望んでいなくても、予防接種やワクチン、感染症(特にVPD)等への無関心とその結果としての不作為が、「空白」を生み出し、ギャップを生じてしまったのです。20年前にベスト(もしくはベター)だった状態や施策が、時間の経過とともにベストやベターでは無くなることはある意味で当たり前です。何故なら社会を構成する様々な要素が変化していくからです。無関心と不作為は、これらの変化に対応しないこととなりますから、必然的に社会が必要とする状態や施策が得られない、実現されないということになります。

私が拙団体、+Action for Children を立ち上げた理由の一つが、この無関心と不作為に対する啓発と行動を促すことにあります。そのため、「知って」「考えて」そして「行動する」ことを掲げています。私たちは社会に暮らす有権者の一人として、社会の状況を知り、課題があると知ったのならどうしたら改善できるのかを考え、改善に向けて行動することが求められます。知り、考え、行動すること、これらが無関心と不作為に陥らない方法だと思います。

幸い、インターネットが普及し、情報端末が発展してきたおかげで、得られる情報の幅も量も増え、また、情報を発信するためのハードルが下がり、私たちは多くの事柄について、知り、考える機会を得られるようになりました。20年ともいわれるワクチン・ギャップを生みだした1990年代とは、大きく異なっている環境にあります。そしてこの環境は、無関心や不作為を防ぐことにプラスである、と私は考えています。

と、前置きが長くなりましたが、そのように「知り」「考える」ための環境が整いつつある一方で、その環境の恩恵を受ける私たち人間の側に、改善が進んでいない面があるのかなと感じています。多様な情報が多様な立場から発信され、気軽に得られる環境に、私たちは十分に対応できていないのではないか、そんな懸念です。

知る、という面では、情報発信や情報流通のハードルが下がった分、検証を経ていない出所不明の情報、真偽が定かではない情報も数多く飛び交うようになっていることへの対応ができているのか、とても心許ないなと思っています。玉石混交の情報の海から、玉と石を選別するためのリテラシーが我々に十分に備わっているのか。このことについては本日はこれ以上は触れませんが、多くの方々がこの問題について様々な見解を示してくださっています。私たちの子どもの世代に、どのように情報との付き合い方を身に付けさせるのか、私たち大人が考えていかなければいけない課題の一つでしょう。

考える、という点のひとつ、議論することにおいて、最近、眉をひそめる状況を散見します。ひとつのリンゴを目の前にして、「美味しそう」と思うか、「美味しく無さそう」と思うか、実際に食してみて「美味しい」と思うか、「美味しくない」と思うか、それは個人個人の価値判断です。そしてそのリンゴにいくらの値段をつけるのか、1個500円でも買いたいと思うのか、5個で298円でも買いたくないと思うのか、も価値判断です。

※「これはリンゴじゃない」とか言い出したら話しは別なんですけどね、今日は省きます。

この価値判断は人それぞれであり、ひとつが絶対的に正しくて他のものは間違い、というものではありません。この多様な価値判断をぶつけ合い、最終的にいずれを優先するのかを合意形成していくのが民主主義における議論なのだと思います。この議論でぶつけあうのは価値判断であって、主張するそれぞれの人間の価値や存在そのものではありません。にも拘らず、自分と違う価値判断を持つ立場の人の人間性や存在そのものを否定するような言動が目につくように感じています。

自分と異なる価値判断を主張する人への人格攻撃ともいえる情報が、ハードルが下がった情報発信環境において、簡単に流布されています。「○○派」とか「御用(エア御用というのもありました)」とかのレッテルを貼り、「悪魔」「犯罪者」と罵り、「断罪せよ」等と煽る情報。これでは議論は成り立たないですよね。お互い、何故自分の価値判断が社会的合意形成の上で施策として選択されるにふさわしいのかを議論しているのに、異なる価値判断を有する人の人格や尊厳を否定することで、議論を無いものにする手法といっても良いでしょう。この結果として、議論の結論では無く、激しく相手を非難し沈黙させた方が主導権を握るということがあるかもしれません。これで果たして良いのでしょうか。

議論することを放棄して個人を否定することで、結果として合意形成のプロセスを経ることなく何らかの意思決定が社会的になされた場合、その価値判断の妥当性云々とは別に、否定されることの恐怖や嫌悪、議論を放棄したプロセスに対しての無力感等から、無関心や不作為が生じる危険性が高いのではないでしょうか。私はこの事をとても強く恐れています。そして、最近の言論、とりわけweb上での遣り取りに、この危険性を感じています。

異なる価値判断を有し主張する人間個人を攻撃し否定し弾圧する、そのことが、時には国家間の戦争にまで発展することを私たちは歴史から学んだはずです。その過ちを再び繰り返しているような気がしてならないと言ったら、大袈裟でしょうか。

誰しも好き、嫌いがあります。自分と真逆の価値判断を示す人間を好きになれないというのは当たり前かもしれないですし、時には嫌いと思うことだって不思議じゃありません。だけれども、好き嫌いをそのまま行動に持ち込んで、相手を攻撃する、否定する、侮辱するなんていうのは、大人として子どもたちの前でとるべき行動だとは思えません。私たち大人が子どもたちに残すべきは、私たちが成長過程で過ごした環境とは大きく様変わりした現代の環境をうまく活用してより良い環境を更に後世に残していく力、能力ではないでしょうか。先に挙げたように、玉石混交の情報を適切に取捨選択するスキル、得た情報をもとに議論し合意形成を図り、実践することで、無関心と不作為を防ぐ力、こういったものを子どもたちに残してあげなければならないのだと思います。

異なる価値判断を主張する議論の相手を個人否定し、攻撃し、侮辱し、議論そのものを破棄する言動、「好き」「嫌い」という価値判断で、情報の発信者そのものを否定する言動、こういったものは子どもたちに残すべきスキルとは全く真逆の言動ではないでしょうか。

以上、雑感でした。



2013年5月16日
ムコネットTwinkle Days 命耀ける毎日」に掲載

2013年05月20日
ハフィントンポスト日本版」に転載



過去記事を改めて掲載します

すっかり更新が途絶えておりますこのブログ。
ようやく、更新の運びとなりました。

というのも、最近、私が過去に書いた記事の類についてのお問い合わせをいただく機会が何度か続いたものでして、改めてこちらに再掲することに致しました。

書いた当時の情勢と変わっている部分もありますが、どうかご容赦ください。
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